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改めて考えるオリンピックの意味 「メダルの数」で評価される限り、日本のスポーツ文化は成熟しない

THE ANSWER / 2024年8月7日 16時34分

中京大・來田享子教授が考える「スポーツが人を育てること」とは【写真:ロイター】

■「シン・オリンピックのミカタ」#71 連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」第7回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 今回は連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、少子化が進む中で求められるスポーツ普及を考え、それぞれ打ち込んできた競技が教育や人格形成においてもたらすものを語る。第7回は中京大学・來田享子教授。日本オリンピック委員会理事を務め、オリンピック史やスポーツにおけるジェンダー問題を専門とする。研究者のアカデミックな観点から考える、「スポーツが人を育てること」とは。(取材・構成=長島 恭子)

 ◇ ◇ ◇

 私はオリンピックを通して、スポーツと人権について考え続けています。そのなかで常に思考してきたことは、なぜ、女性のやりたいと思うことが出来ないのか? 自分が自分らしくいられる状態のなかで、スポーツはそばにあるのか? ということです。

 誰もが平等に参加し、公平に競い合う。これがスポーツの原則です。スポーツ界は誰も排除することなく、その人がありのままで関われる世界を目指しています。

 その変遷をジェンダー平等や女性参加という視点からみると、奇しくもオリンピックの「パリ大会」はポイントになります。今回のパリ大会では、史上初めて選手の出場枠が男女同数になりました。そして女性が初めてオリンピックに参加したのは、1900年のパリ大会。その後1924年、オリンピック憲章に女性の参加を認める文章が入ります。

 現在であれば、LGBTQ+の問題です。トランスジェンダー選手の参加基準についてはまさに今、国内外の競技団体の間で模索されています。また、選手たちは過去の何倍ものスピードで、LGBTQ+をカミングアウトし、性の多様性を訴えています。

 今後、協議・検討を重ね、熟成した先に、平等の新しいカタチが出来ていくでしょう。

 全ての人が参加できる世界にしようと、スポーツ界は今日に至るまで、その時代、時代でルールの見直しを行い、変化させてきました。

 しかし、その度に「公平、平等のはずがそうではなかった!」と気づかされてもきたのです。

 スポーツは共通のルールのもと、行われます。ということは、参加することの出来ない人も明確になりやすいですよね。誰かが傷ついてからでないと気がつけないのが、人間の想像力の欠如であり残念な点ではありますが、私はスポーツは「私は傷ついているよ」と知らせてくれる、一つの形でもあるのだと考えます。

 スポーツにおける公正さの基準は恐らく、今後も変わり続けます。しかし、結果的には「伝統的にはそうだけれど、これが私たちの時代のスポーツだよね」と、より良いものにしていくのだろうと思うのです。


中京大・來田享子教授【写真:編集部】

■五輪は五輪である限り、発言する自由を絶対に守っていく必要性

 一方で、スポーツやオリンピックの持つナショナリズムや国際政治は、これらの理念と合わない現実をうまく覆い隠してしまう力があり、その仮面をどうしても剥がせないという問題も抱えています。

 オリンピックという大会は、スポーツを手掛かりによりよい人間社会と世界平和にどう交換できるのかを、世界中で一緒に考えましょう、という大会です。

 しかし、例えば14年のソチ大会(冬季)ではロシアの同性愛禁止法、08年、22年(冬季)の北京大会ではチベット問題やウイグル人への人権侵害、女性テニス選手に対する性加害問題、今大会はイスラエル・ハマス戦闘と、近年も議論は絶えません。

 2023年、オリンピック憲章の改訂が行われました。そのなかの一つが、根本原則1です。オリンピズムの生き方を定義する一文の最後は以前、「~普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」と記されていた。そこに、「国際的に認知されている人権に乗っ取り、オリンピックムーブメントの権限の範囲内で」普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする、というカッコ内の言葉が追加されたのです。

 本来国際オリンピック委員会(IOC)は、開催国や参加国が「自分たちの人権のスタンダードだ」と主張しても、「あなたたちの人権などという話ではない。人権は世界基準のもので普遍的なものでしょう」と、常に押し返さなくてはいけません。しかし、この改訂には、「権限の範囲内で」という限定付きで言わざるを得ない、世界情勢に対する苦しさを感じさせます。

 それでも、オリンピックムーブメントのなかだけでも、国際基準の人権を何とか守りたい、という意志が見えてくる。

 オリンピックは国別対抗の単なるスポーツ大会ではありません。社会改革や教育改革の文脈で開催されるものです。そして、人間社会と世界平和にどう貢献できるのか。それを一緒に考えましょう、という大会です。

 ですから、オリンピックはオリンピックである限り、発言する自由を絶対に守っていかなくてはいけません。守れなかったときにIOCは、最も批判されるべきだと思います。

 さて、スポーツを語るとき、よく「結果が大事」といいますが、スポーツほど結果だけ見てもわかりにくいものはありません。

 観客が勝敗に至るまでのドラマを観たいのは、結果だけでは語れない「何か」がそこにあるからです。スコアだけ知っても、何も面白くはないですよね。

 スポーツというのは肉体を通じて、物事の多面性を最も考えさせてくれるものです。勝ったけれど目の前に負けた相手がいるとか。勝ったけれどものすごく脚が痛いとか。「こんな勝ち方ではないはずだったのに」とか、「負けたけどめっちゃ良かったな!」とか。
 
 二項対立では絶対に済まされない世界観みたいなものが、 練習のたび、1試合終わるたびに、肌で感じたり、見えてきたりする。それがスポーツの素晴らしさです。

■メダル数で競技団体が評価される限り、日本のスポーツ文化は成熟しない

 一方で、「勝利か敗北か」という価値の一元化にはまりやすいのもスポーツです。勝敗があるから仕方ないのですが、しかし、勝ち負けやメダルの数にこだわることは、結果的にスポーツの価値を矮小化し、スポーツの進化を削ります。

 メダルを獲った数で競技団体が評価される限り、日本のスポーツ文化は成熟しません。例えば私は、メダルをたくさん獲った競技団体にたくさんの公費が出るのではなく、スポーツがどう人を幸せにできたかが評価されるべきだと考えます。

 障がい者の参加率が上がったとか、多様性を高めるためにどれだけ努力をしたかとか、スポーツを通じて「楽しかった」「生きていて良かった」と思える人が一人でも増える活動に対し予算がついていく。そういう世界になって初めて、日本社会にスポーツ文化が根付いたと言えるのではないでしょうか。

 もしもスポーツによって育まれることがあるならば、それはやはり人間としての在り方だと思います。

 ですから、「勝たないとスポーツではない」「強ければ体罰も許される」と、単純な勝ち負けの図式に押し込まれそうになる瞬間を、私たちは見過ごしてはいけません。

「お前はそう思うかも知れないが、自分はこう思うよ」とチーム内で意見を言い合えることは、スポーツを愛する人たちの一つの良さです。

 アレ? と思うことがあったら、見て見ぬ振りをしたり、見逃したりしないことはとても大事です。「それはちょっと違うんじゃない?」と自分の意見を口に出せる価値、大らかでオープンな空気を大事にして欲しい。これは、差別や排除をなくすことと似ています。

 そうやって、一人ひとりが価値の一元化に徹底して戦う。その先に成熟したスポーツ文化、ひいては社会が育まれていくと思います。

■來田享子 / Kyoko Raita

 中京大学スポーツ科学部・大学院スポーツ科学研究科教授。博士(体育学)。日本体育・スポーツ健康学会、日本スポーツとジェンダー学会会長。日本オリンピック委員会理事、日本陸上競技連盟常務理事。神戸大卒、中京大大学院博士後期課程修了。2008年より現職。オリンピック史やスポーツにおけるジェンダー問題を専門とする。中京大学スポーツミュージアム館長。『よくわかるスポーツとジェンダー(ミネルヴァ書房)』でJSSGS学会賞受賞。国際オリンピック史家協会“Vikelas Plaque”受賞。(THE ANSWER編集部)

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