金メダリストがなぜ市役所職員に? 転機は新聞広告…「人は変われる」レスリングに学んだ人生の教訓――レスリング・土性沙羅
THE ANSWER / 2024年8月8日 10時44分
■「シン・オリンピックのミカタ」#74 連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」第9回
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
今回は連載「私のスポーツは人をどう育てるのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、少子化が進む中で求められるスポーツ普及を考え、それぞれ打ち込んできた競技が教育や人格形成においてもたらすものを語る。第9回は、2016年リオデジャネイロ五輪のレスリング女子フリースタイル69キロ級で金メダルを獲得した土性沙羅。勉強も苦手で、特技もなかったという小学生時代。そんな自分を変えてくれたのがレスリングとの出会いだった。栄光も挫折も経験した現役生活から学んだことを明かしてくれた。(取材・文=藤井 雅彦)
◇ ◇ ◇
金メダリストのセカンドキャリアを想像できるだろうか。
後進の指導にあたるケースが多いかもしれない。その道を極めた者にしか伝えられない技術論や精神論がある。同じ台詞でも、発する人間が変われば説得力はまったく違う。お世話になった競技への直接的な恩返しにもなる。
リオデジャネイロ五輪のレスリング女子フリースタイル69キロ級金メダリスト土性沙羅が選んだ道は違った。自らを成長させてくれた教えに対しては感謝の気持ちで溢れていたが、表現方法に関しては指導者を志さなかった。
「もともと話すことが苦手なタイプで、レスリングの技術や心構えといった部分を言葉で伝えられないと思いました。もともと自分は感覚でプレーしていたタイプでもあるので、他人に教える自信がありませんでした。だから現役引退後も、指導者の道はまったく考えなかったんです。たまに母校に顔を出して、練習に混ぜてもらえるくらいでいいかなぁって」
現在は故郷の松阪市役所の職員として、松阪市のPRとスポーツ振興に尽力している。応募はひょんな出来事がきっかけとなる。
引退を公にする少し前、自宅でのんびりしていると母から1通のメールが届いた。新聞広告の一部を撮った写真が添付されていた。
「試合に負けて現役生活に区切りをつけることを決意したタイミングで、悔しさもありながら、やり切った気持ちもありました。私は地元の松阪市にたくさん応援してもらったので、いつか恩返ししたい気持ちはずっと持っていました。送られてきたのは市役所職員を募集する広告で、本当にいいタイミングでした。現役中はレスリングのこと、目の前のことでいっぱいいっぱい。セカンドキャリアについて考える余裕はなかったのですが、母からのメールで不思議と視界が広がった気がしました」
土性ではなく結婚後の苗字で応募し、25人の応募から採用の2人に選ばれた。想像以上に反響が大きく、各種メディアはこぞって金メダリストが選んだ斬新なセカンドキャリアを報じた。
今は講演会で想いを伝えられるようになったという【写真:本人提供】
■引っ込み思案の自分が「講演会で想いを伝えられるようになった」
転身してみると期待の大きさを肌で感じた。
「ちびっこの指導をお願いされて、保護者の方々にすごく喜んでもらえると嬉しい。現代の子どもたちは夢を持てないと学校の先生に言われるけれど、何かを頑張ろうと思うきっかけになっていたら、私にとっても自信になります」
次第にプレーの幅を広げていった。レスリングではなく、社会人として。
もともとは「引っ込み思案なんです。緊張するタイプだし、人の陰に隠れていたい」というキャラクターだが、人前で話す機会が増えると変わっていく自分がいることに気付いた。
「現役時代から自分の言葉を発するのが苦手で……。注目してもらえるのは嬉しかったのですが、発言することに自信がありませんでした。新聞記事の取材ならまだしも、テレビカメラに囲まれると緊張して頭が真っ白になりました。自分にスポットライトが当たるのは競技以外では考えられなくて、講演会のような場は考えられませんでした。
それが今では小学生や親御さんの前で40分講演をして、自分の言葉で想いを伝えられるようになった。私には絶対にできないと思っていたことが、できるようになった。それだけじゃなくて、楽しい気持ちも芽生えてきたんです。市役所職員になってすごく成長した部分だと自負しています。私も意外とできるじゃん、って(笑)。若い頃の自分を知っている人には、変化に驚かれます。人は変われるんですね」
そう言って目を輝かせながら、すべてのきっかけを与えてくれたレスリングに想いを馳せた。
初めてマットに立ったのは小学校2年生の時。親の勧めで弟と一緒にスポーツを始めることになり、練習している様子を初めて目にする。空手、柔道、合気道……。最後に見学したのが、父親が高校生時代に熱中していたレスリングだった。
「吉田沙保里さんのお父さん(故・吉田栄勝氏)が主宰する一志ジュニア教室でレスリングを始めました。見学させてもらった練習は楽しそうだったのですが、どうやらそれはお客さん用の練習だったみたいで……(苦笑)。とにかく厳しくて、やめたくて仕方ありませんでした。でも先生が怖くて、やめることすらできない。そうやって我慢して続けていたら、少しずつ勝てるようになっていって、それからはレスリングの楽しさに惹き込まれていきました。勝てると楽しい。勝つと、もっと勝ちたい。そんなシンプルな動機だったのが、どんどんと負けられない気持ちと立場になってくるから大変でした」
「レスリングがなかったら何も残せていない」と言う【写真:Getty Images】
■レスリングとの出会いが変えた人生
怪我の影響もあって2023年に引退を決断したが、レスリングとの出会いが人生を大きく変えてくれた。
勉強は好きじゃなかった。運動も、例えば球技などはむしろ苦手だった。これといって特技のない女の子は人生の道標を見つけ、それは自分を照らしてくれる灯りになった。
「私ができたのはレスリングだけ。レスリングがなかったら何も残せていない人間だと思いますし、今の人生はありませんでした。楽しいこと、嬉しいことだけではありません。悔しいこと、悲しいこともありました。金メダルだけじゃなくて挫折も経験しました。でも、だからこそ負けた選手の悔しさを伝えることができる。マットの上に立っている時だけは注目されて嬉しかったですし、見られることに対しても緊張しませんでした。レスリングが自分に自信を付けさせてくれました。私に光を当ててくれる星のような存在です」
マットから離れても、想いは変わらない。パリ五輪は1人のファンとして楽しむのだという。
「軽量級から重量級までメダルが期待できます。楽しみましょう」
立場を変えて初めて行われるスポーツの祭典を、心の底から楽しむつもりだ。
■土性沙羅 / Sara Dosho
1994年10月17日生まれ、三重県出身。小学2年生の時に吉田沙保里の父・栄勝氏の一志ジュニア教室でレスリングを始める。すぐに頭角を現すと高校、大学で何度も全国制覇を経験。21歳の時に2016年リオデジャネイロ五輪69キロ級の代表に選ばれると、五輪初出場で金メダルを獲得した。その後も17年の世界選手権やアジア選手権で優勝するなど結果を残し、21年東京五輪にも出場したが3位決定戦で敗れてメダル獲得ならず。23年3月に現役引退。故郷の三重県松阪市へ戻り市役所職員に転身した。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)
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