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異例の「金メダリスト市役所職員」誕生 朝練が怖くて眠れぬ夜も…180度変わった今が「なんか不思議」――レスリング・土性沙羅

THE ANSWER / 2024年8月8日 10時43分

今は松阪市役所の職員として忙しく働く土性沙羅さん【写真:本人提供】

■「シン・オリンピックのミカタ」#73 連載「あのオリンピック選手は今」第4回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第4回は、2016年リオデジャネイロ五輪のレスリング女子フリースタイル69キロ級で金メダルを獲得した土性沙羅。初出場で快挙を達成すると、21年東京五輪後に現役引退を決断。セカンドキャリアとして選んだ道は、元アスリートとしては珍しい市役所職員だった。(取材・文=藤井 雅彦)

 ◇ ◇ ◇

 くまのキャラクターがデザインされたポーチから黄金のメダルを取り出すと、子どもたちは目をキラキラと輝かせて、「わぁ、すごい!!」と声を弾ませる。できる限りたくさんの少年少女に触れてもらい、実際に重さを感じてもらう。血と汗がにじむような努力と過程で流した涙の詰まったメダルだ。

 リオデジャネイロ五輪のレスリング女子フリースタイル69キロ級金メダリストである土性沙羅は、現役を引退後、出身地である三重県松阪市の市役所職員に転身した。デスクワーク中心の日々を過ごしているが、市内の小中学校を回って授業を行う機会もあるという。メダルは必需品になっている。

「もともとは大切に保管していたんです。でも最近は持ち歩く機会も多いので、手軽なポーチに入れて身近なところに置いてあります。実物を見せると子どもたちはすごく喜んでくれるので、少しでもレスリングやスポーツに興味を持つきっかけになったら嬉しいです」

 8年前の夏。逆転での金メダル獲得だった。決勝では12年ロンドン五輪で金メダルを獲得したロシアのナタリア・ボロベワと対戦。2ポイントを先行されたが、試合終了20秒前にバックを取って2ポイントを奪取する。これがビッグポイント(1回のアタックで獲得した得点)数で上回り、逆転勝利した。

 五輪初出場での金メダル獲得だった。

「決勝の記憶は鮮明に覚えています。試合中の風景もすぐに浮かんでくるし、自分が頭の中で考えていたことも。タックルを決めた時は落ち着きながら、でも焦っていましたね(笑)。試合映像は子どもたちに見せたりもするので、自分でも何度も見ています。レスリングをやっている自分を見てもらうのは全然恥ずかしくありません。自信を持って戦ってきた競技ですから」

 当時は21歳とまだ若手だったが、大会に臨むにあたって大きなプレッシャーを感じていた。普段は無邪気に笑ってばかりの女の子が、マットの上では鬼と化す。練習の時から高い集中力を保ち、試合に臨んだ。

「日本のレスリングには先輩方が築いてきた偉大な歴史があって、金メダルを獲る種目という意識が自然と植えつけられていました。私自身も期待されていたと思いますし、その期待に応えるためにも負けは許されない。練習であっても負けられなかったので、後輩たちからは怖い印象を持たれていたと思います。

 練習が終わったらニコニコしているのに、マットに上がった瞬間に顔が変わる。周りにも言われましたし、自分でも分かっていました。完全にスイッチオン、です。そのスイッチは五輪で金メダルを目指していた時にしか入らないもの。あの時ほど何かを本気で掴みにいったことはないし、これからもないんじゃないかな」


リオ五輪で金メダルを獲得した土性さん(左から2人目)【写真:Getty Images】

■金メダル前年に負傷「私のレスリングスタイルがガラッと変わった」

 若くして世界の頂点に立った。連覇が期待された東京五輪では3位決定戦で敗れて、メダルに手が届かなかった。そして2023年3月30日に現役引退を発表。やり切ったという思いもあり、セカンドキャリアは別世界へ飛び込んだ。

――後悔や心残りがあるとすれば?

 投げかけた質問に少しだけ寂しそうな表情を浮かべ、言った。

「怪我がなかったらな……。怪我をしなければ、今もレスリングを続けられていたかもしれない」

 それは金メダル獲得以前の、リオ五輪出場を懸けた2015年全日本選手権での負傷だった。リードしている状況で仕掛けたタックルが返されてしまい、相手に逆転を許してしまう。ラスト30秒ほどでポイントを取らなければ、という焦りから強引に仕掛けて左肩を亜脱臼した。

 その後、ポイントを奪って勝利することができた。だが、代償はあまりにも大きかった。約1年後の金メダル獲得時も左肩は万全の状態ではなく、患部周辺を筋肉で固めて臨んだ大会だったと明かす。

「4-0のところで仕掛けたタックルをしっかりと決められていれば、そのあと無理やり取りにいかなくてもよかった。そうしたら、あの怪我もなかったのかなという思いはずっとあります。もっとちゃんとタックルの練習をやって、試合で決めていれば、という心残りです」

 月に1度は肩が外れてしまうのでは、思い切った戦いは不可能だ。プレースタイルの変化を迫られ、以降は我慢と忍耐のレスリングを余儀なくされる。最大の武器であるタックルを仕掛けることに対して、頭の片隅で恐怖心を抱く自分がいた。手術を受けて完治しても、元の自分に戻れたとは言い難かった。

「肩の状態を気にして、正面からタックルできないのはもどかしかったです。小さな頃からタックルを重点的に練習してきたのに、その武器がなくなってしまった。たった1つのプレーで、私のレスリングスタイルがガラッと変わってしまったんです」

 栄光の裏にあった、1つの悔恨。自分の形を貫き通せなかった東京五輪での負けも潔く受け入れるしかなかった。

 マットに別れを告げた土性の生活は180度変わった。「あのきつい練習をやらなくていいという解放感」が心地良い。不定休のためにまったく予定を立てられなかった現役時代と違い、今は基本的にはカレンダー通りの休みを満喫する。


今は子供たち向けに講演会などの活動も行っている【写真:本人提供】

■ふとした瞬間に騒ぐアスリートの血

 変わったのは、食生活を気にするようになったこと。意外かもしれないが、現役時代は摂生した記憶がないという。

「私の階級は減量がなかったので、好きなように食べていました。お菓子も食べていました(笑)。当時は運動量がすごかったので、たくさん食べても太ることはなかったんです。でも運動する機会が減ったので、食事に気をつけています。牛肉や豚肉ではなく、鶏むね肉ばかり食べています。もうアスリートじゃないのに(苦笑)」

 引退から1年が経った今年4月からはジムに通い始めた。通常業務終了後の夕方はジムが混むため、朝4時から誰もいないジムで黙々と汗を流す。運動不足解消とダイエット目的で始めたのに、だんだんヒートアップするのが性分というものだろう。

「痩せるために全身の部位を日替わりで鍛えていました。背中、足、肩と曜日で分けて。そうしたら、しばらくして母に『背中が広くなったよ』と言われました(笑)。軽いウェイトでやっていたら効いているのか疑問に感じて、どんどん重くしちゃったんです。だから有酸素運動をやめて、ランニングに切り替えました。毎朝5キロを目標にして外で走って、1か月100キロを目指しています。現役時代は緊張の毎日で、高校生の時は朝練が怖くて眠れない夜もあったのに、今はしっかり目が覚めて気持ち良く汗を流している。なんか不思議ですよね」

 公務員なのに、ふとした瞬間にアスリートの血が騒いでしまう。そんな金メダリストの市役所職員が松阪市にいる。

(続く)

■土性沙羅 / Sara Dosho

 1994年10月17日生まれ、三重県出身。小学2年生の時に吉田沙保里の父・栄勝氏の一志ジュニア教室でレスリングを始める。すぐに頭角を現すと高校、大学で何度も全国制覇を経験。21歳の時に2016年リオデジャネイロ五輪69キロ級の代表に選ばれると、五輪初出場で金メダルを獲得した。その後も17年の世界選手権やアジア選手権で優勝するなど結果を残し、21年東京五輪にも出場したが3位決定戦で敗れてメダル獲得ならず。23年3月に現役引退。故郷の三重県松阪市へ戻り市役所職員に転身した。(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)

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