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なぜ、この世界にオリンピックが生まれたのか 4年に一度、スポーツの勝敗の先に近代五輪の父が描いた理想

THE ANSWER / 2024年8月9日 10時43分

陸上十種競技の後に選手たちで行う記念撮影は五輪で最も平和的な写真の一つだ【写真:Getty Images】

■「シン・オリンピックのミカタ」#76 改めて考えるオリンピックの歴史と意義・第1回

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 オリンピックは言うまでもなく、単にメダルを争うスポーツの競技会ではない。五輪憲章によればオリンピズムとは「肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学」であり、「スポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するもの」である。その目的は「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」。パリオリンピック開催中の今だからこそあらためてオリンピックの歴史を学び、五輪の意義をあらためて噛みしめたい。

「オリンピックは平和の祭典」など五輪に関する多数の著作を持ち、五輪研究者として知られる東京都立大・武蔵野大客員教授の舛本直文さんにインタビューした。第1回のテーマは古代オリンピアと、ピエール・ド・クーベルタンが復興させた近代オリンピックの始まりについて――。(全3回の第1回、取材・文=二宮 寿朗)

 ◇ ◇ ◇

――パリでのオリンピックは1924年の第8回大会以来、実に100年ぶりの開催となりました。そしてまた、近代オリンピックの父と呼ばれるピエール・ド・クーベルタンの母国でもあります。

「言われたように、クーベルタンを近代オリンピックの父と理解している日本人は割と多いのでしょう。ところがフランスはどうもそうじゃない。彼のご子孫へのインタビューがありましたが、フランスではほとんど評価されず、あまり触れられてこなかったと述べています。ただ今回のオリンピックを機に、フランス国内で見直そうとする動きがありました。クーベルタンの彫像をつくったり、文化プログラムで取り上げたりしています。

 一方で、女性や人種差別主義者だという指摘もありました。これは植民地主義、男尊女卑のような考え方が基本的にあった当時の時代背景も踏まえるべきという声も出ています。クーベルタンのことを振り返る機運があるなかで、彼が理想としていたオリンピズムが多くの人に理解されるいい機会になればと思います」

――オリンピズムとは、クーベルタンが提唱した「オリンピックの在り方」だと認識しています。

「この考えの基本は教育思想なんです。噛み砕いた言い方をしますと、心身ともにバランスの取れた若者に育ってほしい、と。ただ、そのためにはスポーツだけでは不十分で、文化的、芸術的な素養も必要だということがベースにあるんですね。つまりスポーツの成績だけ良ければいいっていう話ではないんです。4年に1度、世界中から選手たちが一堂に会し、選手村で同じ釜の飯を食って、お互いを理解して、友情を育んで、フェアに競技していくことがひいては世界平和を志向していくことにつながっていく。教育思想であり、それが最終的に平和思想に結びついていくという流れです」

――舛本さんの著書「オリンピックは平和の祭典」にも、平和の祭典である由来は「古代ギリシャまでその歴史を遡る必要がある」と記されています。古代ギリシャには四大祭典競技会があり、オリンピアが最大の規模。参加するポリス間の常態化していた争いを一時取りやめるエケケイリア(聖なる休戦)という制度があった、と。

「この休戦という制度はあくまで手段です。そこまでして守らなければならかったものがあったと考えるべきで、それこそが絶対神ゼウスへの信仰でした。オリンピアの競技会はゼウスに捧げる祭典ですから、エリス地方のオリンピアに選手や見物人が向かう際、身の安全が保障されないといけなかったわけです。そしてまたオリンピアの祭典競技会はヘレネスというギリシャ人しか参加できないため、同胞人としてのアイデンティティを確認する装置でもありました。

 もし休戦協定を破って参加できないとなると、あなたたちはヘレネスではないと仲間外れにされてしまう。勘違いしてはいけないのは休戦による平和が目的だったわけではなく、ゼウスへの信仰、ギリシャ人としてのアイデンティティ、この2つが彼らにとって何より大切なものだったのです」

■クーベルタンが感じたスポーツ界の国際平和貢献の必要性

――クーベルタンがオリンピック競技会を復興させ、この古代オリンピアの平和思想を取り込むことになります。19世紀末の時代背景もあったのでしょうか?

「そのころの欧州では国際平和運動が、同時多発的に起こっています。国際赤十字運動、ノーベル平和賞の設立、世界平和会議の開催などがあり、クーベルタンはやはりスポーツ界も国際平和に何とか貢献できないかと感じていたのは事実でしょう。オリンピックを復興しながら、教育運動から平和希求運動に繋げていくという当然の流れがあったのかもしれません」

――しかし最初のころは、クーベルタンの考えはあまり理解されなかったそうですね。

「彼は世界中を自費で旅して、シンパをつくっていきます。貴族としてそれだけの資金があったということだと思いますよ。最後はお城まで売ってしまって、苦しい生活を強いられることになりましたけど」

――1896年にアテネで第1回大会が開催されました。クーベルタンの執念が実ったわけですが。

「第1回から第3回大会までオリンピックは個人参加でした。ところが第4回のロンドン大会から国別参加にして国旗を掲げて入場行進するようにしたら、オリンピック人気が一気に高まったわけです。国という枠を超えて世界市民思想、つまりコスモポリタニズムと言っていいような考え方を持っていたクーベルタンの思想は理解されず、皮肉にも国の代表として競い合うことで人々は熱狂していきました」

――平和希求の願いも届かず、1914年に第1次世界大戦がぼっ発。1916年のベルリン大会は中止になりました。エケケイリア(聖なる休戦)の実現は難しかった、と。

「理想と現実のギャップということですかね。現実のほうがはるかに強い。いくら素晴らしい理想を掲げても、世界の政治家は動かない。現実に生きる人々は理想を理解しづらく、オリンピックは戦争を止めることはできなかったという現実がありました」

――1936年にはナチス政権下でのベルリンオリンピックが開催されます。なぜ平和を愛するクーベルタンが、賛同したのでしょうか? この後世界は第2次世界大戦に突入していき、オリンピックは2大会にわたって中止になります。

「開会式含めて盛大なお祭りをしたいっていうのがクーベルタンの理想でもあったわけですね。彼が理想とするオリンピックの形を実現してくれたのがベルリン大会でもありました。実は、ベルリン大会のシンボルマークは平和の鐘。ナチスも形式上は平和の祭典であることを謳っていて、さらに言えばオリンピアで採火する聖火リレーを新しく導入したことでクーベルタンは喜んだに違いありません。欧州の連帯だというメッセージと言われて、信じ込んでしまった。実際、ナチスが裏で何をやっているかを分かっていなかった。その後のクーベルタンは傷心の日々を送ることになっていきます」

(第2回に続く)(二宮 寿朗 / Toshio Ninomiya)

二宮 寿朗
1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)などがある。

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