マラソンで転倒、靴を踏まれ… 「コケちゃいました」五輪の歴史に残る名言は「言い訳で…」意外な真実――マラソン・谷口浩美
THE ANSWER / 2024年8月10日 13時33分
■「シン・オリンピックのミカタ」#86 連載「あのオリンピック選手は今」
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第5回はマラソン・谷口浩美さん。1992年バルセロナ五輪男子マラソンのレース中の接触、転倒で金メダル争いから脱落し、レース後に「コケちゃいました」の名言を残して国民に爽やかな感動を与えた。レースだけでなく大会前にもアクシデントに見舞われ、絶体絶命の状態からたどり着いたスタートライン。“コケた”後の勘違いや帰国後に知った事実など、振り返ってもらった。(文中敬称略、取材・文=THE ANSWER編集部・瀬谷 宏)
◇ ◇ ◇
大会最終日の1992年8月9日。気温31度というマラソンには酷暑といえる条件の中、スタートラインに立つと感謝の思いが込み上げてきた。
「何とかここに来られた。自分は幸せだ。諦めなくてよかった」
一時は出場すら危ぶまれた。大会に向け恒例の100日前練習を始めたものの、開始から10日で右足中足骨を疲労骨折。入院を余儀なくされた。前年に東京で行われた世界陸上で優勝し、金メダルの有力候補として期待されていたエースの一大事が世に知れれば大騒ぎになるのは必至。日本陸連や医療機関は徹底して入院情報を隠した。
「もしかしたらバレていたのかもしれない。でも結果的に私の(入院)情報はメディアに出なかったんです。とにかく自分はスタートラインに立てるかということだけに集中していました。最初は2週間で治るよ、なんて言われていたんです。でも2週間経って帰れると思ったら『あと2週間ね』って(笑)。当然、私がダメなら補欠選手が出ることになるわけですが、病院の先生は『何としてでもスタートラインに立たせるんだ』って。だからスタートラインに立った時に、ありがたみを感じましたね」
入院中も右足に負担がかからないトレーニングを重ね、退院後の練習で走れる体には戻っていた。スタートラインに立った以上、狙うのは金メダル。「作戦通りに走れば勝てる。自分のプランは間違っていない。勝負できる」。勝ち筋は見えていた。
根拠はあった。故障前の3月、ともに五輪に出場する同僚の森下広一とカタルーニャマラソンの視察を行った。コースは五輪とほぼ同じ。実は大会前「バルセロナで金メダルを獲るのは森下だろう」と考えていた。
「自分は世界選手権を勝っていたけど、あれは東京の暑さのお陰でした。外国勢はそれに対応できなかったんです。そういうこともあって、当時は森下のほうが強いと思っていたので、どうすれば森下を負かせるかという考え方。モンジュイックの坂を上がり、40キロを過ぎたところで少し下りがある。そこでスパートすれば森下が諦めるんじゃないかと。勝つにはそれしかなかった」
■予想外の転倒と“勘違い”をしたまま進んだレース
退院から1か月ほどで仕上げた肉体、金メダル獲得に向けた青写真を胸に、自信を持ってスタートした。ペースはそれほど速くなく、大きな集団となって迎えた20キロ過ぎの給水地点でアクシデントは起こった。集団を崩しにかかった日本の中山竹通がスパート。他の選手も追いかける形となったことで、隊列が乱れた。給水テーブルの近くを走っていた谷口は右手でボトルをつかんだ瞬間、割って入ってくる形となったモロッコの選手に左かかとを踏まれ、転倒。靴も脱げた。
「中山さんが動き出したのを見て、追いかけなきゃという思いでした。給水も取れた、と思ったら左足が上がってこない。気がついたら転んでいました。日本人というのは礼儀正しくて、給水でも順番待ちというか、前に誰かいたら押してはいけないというのがあるんです。でも海外の選手は“我先に”といった感じで入ってくる。その選手も必死だったんでしょう。もちろん、私が転んだことは気づいていなかったと思います」
運が良かったのは、給水地点の路面が濡れていたこと。とっさに体を捻って斜め向きに転んだことで、左肘と左腰辺りの擦過傷だけで済んだ。すぐに脱げた靴を取りに戻り、履き直してレースに復帰。結果、30秒ほどのタイムロスとなった。
そこからはひたすら前方の選手を一人ずつ抜いていくだけ。30キロ過ぎではトップを走る選手も見えた。「その時に数えて、私は15位だったんです。だから入賞するにはあと5人抜かないといけないと、その時は思ったんです。当時のマラソンは10位まで表彰してくれたので。でもコロンブスの塔に差し掛かった時、急に頭に浮かんだんです。『あれ? 五輪は陸上のトラックも8レーンだし、入賞は8位か!』と。気づかせてくれたのはコロンブスなんです(笑)」
その時点で12位。あと4人抜く必要があり、さらにギアを上げた。「9位ではダメ。入賞しないと何を言っても説得力がない」と気力を振り絞り、何とか8位でゴール。するとレース後、インタビューで取材エリアに呼ばれた。「メダルを獲ったわけでもないのに、なんでだろう。でも、何で谷口はこんなに遅れたんだとみんな思っているはず」。インタビュアーは自身の転倒を知らないと思っていた。だから「事情説明」のために口にしたのが、あの言葉だった。
「コケちゃいました。これも運ですね」
今も日本の五輪史に残るフレーズは、敗れても言い訳をしないスポーツマンシップとして称賛された。だが当の本人は「コケちゃいました、は私としては言い訳ですからね。でも9位で『コケちゃいました』と言っても何もない。8位になったから何となく認めてもらえたのかなと。だから最後はもう入賞、入賞っていう思いで走っていましたね」。
森下広一(左)、中山竹通(右)と健闘を誓った谷口さん【写真:産経新聞社】
■帰国して知った2つの事実
帰国後に知ったことが2つあった。まずは、自身が転倒していたシーンが映像として日本中に流れていて「コケちゃいました」のフレーズが大きく取り上げられていたこと。「普段、町を歩いていてもすぐに気づかれましたし、なかなか生活しにくかったですね。SNSが流行っている今だったら、私は潰されています。今の時代じゃなくてよかったですよ」と振り返る。
もう一つはレース展開だった。金メダル有力として見ていた後輩の森下は銀メダル。「森下はどこで負けたんだろうと思って映像を見たんですよ。そうしたら、私が仕掛けようと思ったところで(金メダルの)ファン・ヨンジョに離されていたんです。自分がもしそこにいたらと思ったのと同時に、自分のプランは間違っていなかったんだなと思うと、ちょっと嬉しかったですね」
勝負の世界で“タラレバ”を言えばキリがない。骨折、入院の後に1か月で仕上げた体でも金メダルの可能性があっただけに、大会前とレース中のアクシデントがなかったら……という声は今でもある。
「でも、1か月しかなかったからそういう仕上がりだったのかもしれないですよね。練習もパーフェクトにできていたら、仕上がりすぎてダメだったかもしれない。私の場合は肉体と精神の相関関係が大事と考えていて、体がダメでも頭がしっかりしていれば、ダメな体もどこかで反応するかもしれないわけですから」
綿密な金メダル獲得プランしかり、目的達成のために最大限の時間を割くスタイルで成功を収めてきた谷口氏。そこから培われたメンタルの強さこそが、ミスをしてもあの優しく語りかけるような「コケちゃいました」の一言につながったのかもしれない。
(続く)(THE ANSWER編集部・瀬谷 宏 / Hiroshi Seya)
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