「体操ニッポンの陽は完全に沈んだ」 屈辱の言葉にカチン…伝説の名実況「栄光への架け橋」知られざる秘話
THE ANSWER / 2024年8月11日 6時33分
■「シン・オリンピックのミカタ」#90 五輪担当の元NHKアナウンサー刈屋富士雄・前編
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
オリンピックは世界中の人々が見ている。前回の東京五輪はテレビ、インターネットの配信を通じて視聴者数は30億人以上にものぼったという。今回のパリ五輪も世界中が熱狂しているに違いない。オリンピック視聴と言えば、実況がつきもの。古くは1936年ベルリン大会の「前畑ガンバレ」。人々の思いを代弁するようなアナウンサーのその声は、日本列島を一つにした。そして近年の名実況と言えば2004年アテネ、体操男子団体が28年ぶりとなる金メダル獲得を決める際の「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」を思い浮かべる人は多いだろう。声の主である刈屋富士雄さんが振り返る、アテネの記憶――。(前後編の前編、取材・文=二宮 寿朗)
◇ ◇ ◇
言葉にするフレーズは準備しておいても、あらかじめ決めておくものではない。競技を学び、歴史を知り、選手たちを観察し、取材する。膨大にあるデータを整理してしっかりと頭に詰めておけば、目の前に広がる光景に適した言葉をチョイスできる。スポーツアナウンサーの第一人者であった刈屋富士雄のポリシーだと言っていい。
1983年、NHKに入局後、92年のバルセロナを皮切りにアトランタ、長野、シドニー、ソルトレークシティーに続いてアテネは夏冬合わせて6大会目のオリンピック実況だった。担当する体操男子団体に向けてわざわざ大きな手書きの表を作成している。出場選手ごとにそれぞれの情報を細かく書き込んだもの。丁寧にイラストをつけ、蛍光ペンを使って、自分にとって分かりやすく。自分が耳にした、またはNHKのVTRインタビューで語った選手の印象的な言葉なども記している。この特徴的なメモを持って実況という己の「試合」に臨むのだ。
「情報はおびただしいほどにあって、“あれ、どうだったかな”とあらためて資料を探すのも大変でしたから自分でまとめていました。アジアや世界での大きい大会ごとに整理して、必要な情報だけを入れ替えていくという作業を10何年かけて積み上げてきた自分なりの資料。色をたくさん使っているのも、資料のどこに書いてあるか(実況の際に)コンマ何秒でパッと分かるようにするためです」
その表には<体操ニッポン、陽はまた昇る>と書かれた付箋が貼られていた。フレーズを決めない刈屋も、ふさわしい結果が出ればこれだけは絶対に言いたいと考えていた。
名実況の裏にロシア語でかけられた屈辱の言葉があったという【写真:窪田亮】
■旧ソ連圏の国の代表コーチに言われ、頭に来た言葉
アテネから8年前のアトランタ大会。体操男子団体は10位に終わる大惨敗を喫し、刈屋は旧ソ連圏の国の代表コーチとすれ違う際にロシア語でこうささやかれたという。
「もう本当に、ボソボソという感じでした。『ひどいことを言ってきた』と通訳の人が言うので、聞いたら『体操ニッポンの陽は完全に沈んだ。二度と昇らない』と。正直、カッチーンと頭に来ましたよ。だからここからの8年間、その機会があったら絶対に言おうと決めて、付箋で目立つようにしていました」
予選をトップで通過したとはいえ、実力的には中国が圧倒的にトップで、続いてアメリカ、ルーマニア、日本の争いになるというのが周囲の見立てであり、刈屋もまた同じであった。
トップで通過した予選から決勝までの空いた一日、パルテノン神殿を散歩しながら、頭のなかをもう一度整理しようとしていた。
「僕は何をしゃべるかということは決めません。ただ価値判断として、たとえば銅メダルを獲ったときに復活と言っていいものかどうか。偶然、神殿で女子バレーボールの大林素子さんに会って、その話をしたら『復活でいいんじゃないですか』と。ビーチバレーの取材後にこれまた偶然会った同じく女子バレーのヨーコ・ゼッターランドさんやほかの競技の解説者陣も、同じような反応でした。ただ体操関係者だけは違っていました。『体操ニッポンは金じゃないと復活ではない』と。
決勝当日の夕方まで考えましたよ。テレビを見てくれているみなさんに、やっぱりメダルの価値というものを提示しなければなりません。2大会連続でメダルを逃がしていたのがポイントで、やっぱりメダルを獲ることができれば、客観的に見てもやっぱり復活という言葉が適していると考えました。力強い銅メダルなら“復活のメダル”になるだろうし、点差が離されていたら“復活への第一歩”でいい。そういう価値基準がやっと定まったんです」
価値を判断するには多くの考えを聞いたほうがいい。自分の見立てに固執せず、可能な限り関係者の見解を聞こうとする刈屋の行動一つ取っても、その実直ぶりがうかがえる。
決勝最初の種目「床」において日本は8か国中7位と大きく出遅れた。それでも「あん馬」「吊り輪」「跳馬」「平行棒」が終わった時点で2位まで順位を上げた。決勝はアップができないルールだったためにミスが相次ぎ、大本命の中国がメダル争いから脱落している。
1位ルーマニアとも3位アメリカとも僅差。最終種目の「鉄棒」で、まずルーマニアの選手が落下して大きく点数を落とし、続いてアメリカはエースのポール・ハムが鉄棒を掴み損ねるミスによって、そのまま演技をやめてしまった。
そして日本である。1人目の米田功が9.787、2人目の鹿島丈博が9.825という高得点を叩き出し、実況の補佐役から紙に殴り書かれた「8.962」という文字が刈屋の目に飛び込んできた。つまりこの数字以上を出せば、金メダルになる。刈屋は静かに興奮した。
復活という言葉では足りなくなっていた。
今も語り継がれる「架け橋」のフレーズは突然、舞い降りた【写真:窪田亮】
■突然、舞い降りた「架け橋」のフレーズ
実は米田が演技を終えたときに「架け橋」というフレーズが舞い降りたという。冨田洋之の練習を見ていたときに“何だか橋みたいだ”と感じたことが頭をよぎったからだ。もちろん、アーティストのゆずが歌うNHKオリンピック番組の応援ソング「栄光の架け橋」も頭に入っていた。刈屋は歌詞の意味まで理解していた。アトランタの惨敗からのストーリー、そしてこの日の7位から順位を上げていくストーリーが歌詞と重なっていくように感じた。
「どん底からはい上がってきて、最後はもう思い切って行こうよっていう歌なんです。水鳥(寿思)は2度の大ケガをして、米田は前年のアナハイム(世界体操)で補欠に回って、冨田は世代のトップを走るプレッシャーにさらされていたし、塚原(直也)は体操ニッポンの低迷期に一人で頑張ってきた。選手たちの歩みと、20年間守ってきた王座をモスクワオリンピックのボイコットで明け渡して、そこからはい上がってきた体操ニッポンの歩みが僕のなかで完全にダブったんです」
栄光への架け橋。そのフレーズがストンと自分の胸に落ちた。
3人目の冨田が離れ技コールマンを成功させた時点で、いくら最後の降り技が失敗しようとも得点差を考えれば金メダルは確実になった。
「伸身の新月面が抱く放物線は、栄光への架け橋だ!」
冨田の着地と同時に放たれた魂の言葉。それは観る者の心を心地良く揺さぶった。
そしてずっとずっと言いたかったあの言葉を吐き出した。
「体操ニッポン、陽はまた昇りました!」
20年前の万感は、今も消えることはない。刈屋はこう語る。
「なぜ自分のコメントが伝わったかと言えば、冨田が(着地を)止めたからなんです。もし彼が2、3歩動いていたら、スッと耳に入ってこなかったでしょう。止めてくれたことによって、選手たちの思いも、会場の空気も、観ている人の思いも、その一点に集中できた。だから彼が止めたことがすべてなんですよ。
私としては目の前にあることを伝えようという思いだけでした。自分が会場にいる当事者になって一緒に感動を共有するのではなく、テレビの前で観ている人たちと共有しなくてはなりませんから」
名シーンと重なって単にいいフレーズだったがゆえに、誰もが記憶に残るものになったわけではない。状況を見ながら、空気を感じながら、視聴者との共有を意識しながら。常に最適解を追い求めたスポーツアナウンサーの矜持と執念なくして、伝説の名実況は生まれなかった。
(後編へ続く)(二宮 寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮 寿朗
1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)などがある。
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