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「スポーツは必ず計画が狂い、結末を知らない」 この社会に求められ、スポーツが根付いた歴史と考察――陸上・為末大

THE ANSWER / 2024年8月11日 10時33分

五輪3大会に出場した為末大さんが考える「人がスポーツをする理由」とは【写真:産経新聞社】

■「シン・オリンピックのミカタ」#94 連載「なぜ、人はスポーツをするのか」第5回・前編

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 今回は連載「なぜ、人はスポーツをするのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、なぜスポーツは社会に必要なのか、スポーツは人をどう幸せにするのか、根源的価値を問う。第5回は陸上400メートル障害でシドニー、アテネ、北京の五輪3大会に出場した為末大さん。引退後は「スポーツで社会を良くする」を目指し、さまざまなステージで活躍。そんな為末さんとスポーツの意義について考える。(前後編の前編、取材・構成=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

 ◇ ◇ ◇

 なぜ、人はスポーツをするのか。難しい問いですが、まずスポーツの定義について考えます。

 私は「スポーツとは身体と環境の間で遊ぶこと」と定義しています。人間は古くから「遊ぶ」という行為をやってきました。「遊ぶ」には何かを生み出すクリエイティビティがあり、コミュニケーションを取りながら、相互に理解が生まれる。ただし、体格差がある状態で、全力でぶつかると一方的になるため「遊ぶ」は成立しない。よって、条件を合わせることが必要になる。これがスポーツの根源にあります。

 そんなスポーツが文化として、なぜこれだけ社会に根付いてきたかも考えてみます。

 背景にあるのは、社会では既存の秩序がとても強いこと。しかし、例えば「釣りバカ日誌」では、ハマちゃんの会社のヒエラルキーが釣りになると逆転する。スポーツはそれに近い力があります。スポーツの語源はラテン語の「deportare(デポルターレ)」。もとは都市から離れるという意味合いがあったそうです。都市部には権力があり、それに従う構造がある。でも、町をひとたび出ると、それらが崩れてフラットな関係で相互に交流できた。

 その秩序と無秩序の行き来が人間にとって重要であり、スポーツが求められたのではないか。教育的な効果がある、健康にも良いなどと言われてきましたが、最初は社会でヒエラルキーが硬直しすぎず、それぞれが豊かに生きていくためにスポーツが必要とされた。そして、今も人はスポーツをしているのだと、私は思っています。

 スポーツには意識の世界を越え、夢中になれる喜びがあります。

 スポーツの面白さを考えると、「リアルタイム性」が挙げられます。人間の意思決定において、何かに反応し、判断するまでにかかる時間は0.5秒と言われますが、野球やテニスに代表されるスポーツの世界はその時間がもっと短い。なぜ、そのように速くできるのか。意思決定は実は脳だけでしているわけではないという話があります。

 人間以外の動物は生命活動の中で何かを追ったり追われたりする。その場合、脳で考えて動くのでは間に合わない。人間は進化するプロセスの中で「意識」が生まれ、物事に触れ、情報を入れた後、考えてアウトプットする。これが人間の知性であると、デカルトあたりから言われ始めましたが、それもせいぜいここ数千年の人間観。それより前は、蜂が飛んで来たらパッと手で追い払うとか、獣と出会ったら咄嗟に逃げるとか、考えるよりも反射的に体が動く世界を生きていたのではないかと思います。

 だから、人間は本能的にリアルタイム性を楽しめる。例えば、子どもたちにスポーツを教える時、「体に意識を向けて」など理屈で説明すると、どんどん反応が鈍くなっていく。代わりに「飛んできたボールをすぐ投げ返して」 など、感覚の世界だけに興味を向けると速くなる。そして、その方が子どもたちも楽しそう。人間の自然な動きは考えすぎないで体に任せる世界。それができている時、人は幸せなのではないか。


観るスポーツの最大の価値は「必ず計画が狂うこと」と為末さんは語る【写真:荒川祐史】

■観る側の視点で考えるスポーツ 最大の価値は「必ず計画が狂うこと」

 一方で、観る側の視点に立つと、スポーツの意義は大別するとエンタメか、教育などその他か、に分かれます。

 観る側のエンタメの価値としての大きい点は、計画を誰もできないことです。例えば、映画は誰かが脚本を書き、結婚式は誰かが式次第を考える。しかし、スポーツは双方が計画をしても、それぞれの思惑があるから必ず計画が狂う。勝ちたい、こんなプレーをしたいと描いても、相手はそれを崩そうとする。それが観ていて面白い。

 誰も結末を知らない。今この瞬間、リアルタイムで動いている面白さです。

 もう一つ、スポーツの魅力は人間の感情がむき出しになり、生命が燃えている感じがすること。それを観る人が感じ取るのではないか。大きなところでは五輪や世界大会ですが、運動会であっても子どもが一生懸命走る姿に感じるものがある。

 子どもにおける比較ならば、学芸会であっても感じるものはありますが、スポーツは限界の先にリーチしようとしている。演劇でもそれはあるのでしょうが、遠くに行こうとしている、自分の殻を破ろうとしている。人間の体を使って、分かりやすく限界を突破しようとしている。勝ち負けが分かれ、成否がはっきりしていて、ドラマ性も生まれやすいのはスポーツならでは。

 一体感もあります。特に五輪になると、日本人は日本の選手を応援する傾向にある。厳密に考えると、観る側とする側はあまり関係ないのに、そこに自分を投影する。属性がはっきりしている。スポーツの場合は国や競技を代表することがあり、自分を投影しやすい仕組みでもある。

 観る側も競争の結果はもちろん、その人が何をしようとしていたか、それが成功したかどうか、とても明確に分かります。羽生結弦選手が4回転ジャンプにチャレンジする、陸上で日本人選手が10秒を切れたか、など。それに我々も喜んだり、悔しがったりできる。それはスポーツ以外ではなかなか感じることができない魅力だと感じます。

 しかし、スポーツを現代が必要とするとしたら、実はスポーツが現代に合わせたようなところがある気もします。求められるように相互に発展していった。

 最近は国対国のスポーツよりプロスポーツの方がマーケット的に大きくなっています。それは戦後から1980年代まで冷戦が続き、国対国という構図にドラマ性があった。しかし、グローバリゼーションで国対国という意識が薄れてくると、今度は都市対都市に変わる。これも社会に必要とされるようにスポーツが変化してきた一つの側面です。

 もし社会にスポーツがなかったら、社会はもっと硬直化していたのではないか。かつて国際卓球連盟会長を務めた荻村伊智朗さんは中国、米国に国交がなかった1971年に卓球の世界選手権を日本で開催し、互いの感情を和らがせることで日中の国交正常化に寄与したと言われ、スポーツはそんなこともできるわけです。スポーツは感情増幅装置。資本主義的な感情を増幅すれば、よりギスギスした世界に向かう。でも行き過ぎてしまったら「ほら、みんなお互い同じ人間じゃないか」と理解を求めることもできる。

 僕は、スポーツに善悪はないが、使いようによって感情の増幅ができて、それが良い使い方もできるし、もしかしたらナショナリズムを煽って分断を作ることもできるかもしれない、と考えています。

 では、続いて「2024年のスポーツ」の現在地を考えてみたいと思います。

(続く)

■為末 大 / Dai Tamesue

 元陸上選手、Deportare Partners代表。1978年、広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2024年8月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作は『Winning Alone』『諦める力』など。(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)

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