「生理が止まったら練習できている証拠と…」 未だ「ピル=避妊」と理解進まぬ日本にメダリストの警鐘――マラソン・有森裕子
THE ANSWER / 2024年8月11日 13時34分
■「シン・オリンピックのミカタ」#99 連載「あのオリンピック選手は今」第7回・後編
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第7回は、女子マラソンで1992年バルセロナ五輪で銀メダル、96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した有森裕子。現役を退いてから17年の歳月が流れたが、市民ランナーの姿を見て改めてマラソンの力を感じることが多いという。女性アスリートの健康課題の発信にも取り組む今、自らが人生を懸けた競技には、人が生きるためのすべてが詰まっていると力説する。(前後編の後編、取材・文=佐藤 俊)
◇ ◇ ◇
1996年のアトランタ五輪で銅メダルを獲得した後、有森裕子はプロランナーとして活動していくことを決めた。99年のボストンマラソンで3位に入賞し、自己ベスト(2時間26分39秒)を更新も、2000年シドニー五輪出場は叶わず。その後は01年ゴールドコーストマラソンで優勝するなど結果も残したが、休養期間を経て07年東京マラソンを最後に現役を引退した。
「プロとしてマラソンを走り、賞金をもらって生活費や関わってくれた人にお金を払った時は、すごく充実していました。同じ頃、スポーツマネジメント会社を立ち上げ、講演などの仕事をしたり、かなり忙しくなってきて、仕事と自分の生活のメリハリがつかなくなってきたんです。競技をやることがいつも自分の中心にあったんですけど、仕事が上手くいかないと、競技をやっているからと逃げに使い始めてしまった。マラソンは仕事。2時間25分を切れないレベルなら仕事にならない。それならやらないほうがいいと思い、引退を決めました」
いったん仕事を軌道に乗せた後、競技に戻れればという考えもあった。だが、その頃には競技者として五輪を目指すこと、自己ベストを更新することがイメージできなくなっていた。引退に迷いはなく、マラソンへの未練も寂しさも、まったく感じなかった。
「引退してから『走りたくなりませんか?』ってよく聞かれるんですけど、全然(笑)。だって、私にとってマラソンは好きでも嫌いでもなく、生きていくための手段であり、仕事だったんですから。それを別のものに切り替えただけなので、“ロス”とかはまったくなかったです」
現役引退後、有森は会社の経営や国連人口基金親善大使、認定NPO法人ハート・オブ・ゴールド代表理事、さらに講演会など精力的に活動した。オリンピアンでメダリスト、知名度も抜群で、いろいろなところから声がかかり取り組んできたが、その一つがUNIVAS(一般社団法人大学スポーツ協会)の活動に副会長として参加したことだ。
「今、私はUNIVASで学生の人材育成をメインにしています。大学には、これからの社会や教育を担う人材がいるんです。その人材をスポーツを通して前向きに育成したり、私からも学生や女性に向けて発信するようにしています」
■女性アスリートと体の問題に警鐘「日本では『ピル=避妊』なんです」
そうしたUNIVASでの発信の1つが、生理など女性アスリートの体の問題だ。自身の現役時代と比較して、部活動などスポーツの現場の理解は進んでいるのだろうか。
「理解の速度が遅いですね。実際、いまだに現場で無関心、無頓着な人が多いですし、生理が止まったら、それだけハードトレーニングができている証拠だというバカげた考えも残っています。理解が進まないのは、圧倒的に男性指導者の数が多いのが原因の1つかなと思っています。これは男性が悪いということではなく、女性の体のことを理解できている女性を、指導現場にもっと置くべきなんです」
10代、20代の女性アスリートが、生理などについて男性指導者に相談しにくいという側面は間違いなくあるだろう。
そもそも日本は、生理などの理解が海外よりも遅れている。例えば生理中の経血止めにしても、海外の選手は「ミレーナ」という薬を使用して対応しているが、日本でこの薬の存在を知っているアスリートはまだそれほど多くない。薬の種類や知識の理解を進めていかなければいけないが、日本ではピルを含めて使用に対する抵抗感がまだ大きい。
「海外ではピルは生理を遅らせるなど、自分の体や試合のことを考えて使用しているのですが、日本では『ピル=避妊』なんです。ピルというものに対して、めちゃくちゃバイアスがかかっているんですよ。私自身、更年期の症状が出て、しんどかったのですが、クリニックに行ってホルモン補充の処方をしてもらったらすぐに解消したんです。自分の無知の怖さを知りましたし、これが日本の現状だと思うんです。ピルを含めて、何をどう使うのか、私たちがもっと発信していくことが重要だと思います」
五輪メダリストである有森は、社会貢献活動の一環としてゲストランナーとしての仕事をこなしている。多くの市民ランナーがマラソンに挑戦する姿を見て、毎回思うことがあるという。
「マラソンを走る市民ランナーって、凄いなと思いますね。平日に仕事をしているなかで、時間を見つけて練習し、土日にレースに出て、翌日に普通に仕事をするんです。変な言い方ですけど、ほんと尊敬しますよ(笑)」
市民ランナーのマラソンに懸ける時間や労力、お金はプロとは差があるにせよ、その情熱はプロにも劣らないものがある。彼らの本気をレースで感じられるという。
地方にゲストランナーとして行くと、「走らないんですか」「また走ってください」と声をかけられることが多い。だが有森には、走ることについて確固たる信念がある。
「マラソンは、そこに意味や目的があったり、仕事であれば走ります。一生懸命に必死に頑張ることは好きなので。でも自分から、なんとなく走るのが楽しいからやる、というのはないです。もともとマラソンは仕事。仕事は結果を出さなければいけないものですし、生きるため、食べることに繋がるものを得るためにやっていたんです。楽しむためだったら絵を描いたり、モノを作ったり、自分の好きなことをやっていたいんですよ(笑)」
■マラソンは「人が生きるために一番使えるスポーツ」
現役時代にマラソンをライスワーク(ご飯を食べていくための仕事)と捉えていた信念は、引退した今も変わらない。そこからはマラソンというスポーツに対する尊敬の念と、自身のプライドが読み取れる。
マラソンとはどういうスポーツで、人はそこから何を学ぶのだろうか。
「人が生きるために一番使えるスポーツだと思います。マラソンのように年齢も性別も役職も関係なく、同じ日に同じスタートラインに並んでできる競技ってなかなかないんです。しかもマラソンって、苦しい練習を繰り返しずっと続けなくてはいけないし、ゴールするまでにどうなるか分からない。こうしたい、こうなりたいと思うことがエネルギーになって自分を動かしていくのですが、42.195キロの中でいろいろなものが見えてくるし、いろいろなことが起こる。マラソンは人間社会の縮図だと思うんです」
マラソンにおいて、ランナーは自己ベストを更新するため、あるいは完走するためにゴールを目指して走る。途中、足が攣ったり、体調が悪くなったりすることも起こるが、ランナーは簡単に諦めることをしない。
「ランナーの皆さんって、止まらないんですよ。実は、みんなが走っているなか、自分だけが止まる決断をするのって、すごく勇気がいることなんです。それに、そこで止まらないのは思っている以上に自分がしつこくて、諦めていないからなんです。我慢して止まらずに走っていくなかで、お婆ちゃんに抜かれたらショックでしょうし、着ぐるみを着た人に抜かれたりするようなら、きっとめちゃくちゃ腹が立ちます(笑)。自分の普段知らない人格が出てきたり、自分で決めつけていた人格を否定したり、喜怒哀楽を走るすべての人に感じさせるスポーツは、マラソンしかないと私は思っています」
マラソンは今、多くの市民に愛され、支えられている。有森自身は理由がない限り走らないが、マラソン未経験者の人には、こう伝えていきたいという。
「マラソンって、すごく面白いよ」
■有森裕子 / Yuko Arimori
1966年12月17日生まれ、岡山県出身。日体大を卒業後、リクルートに入社しマラソンに挑戦。92年バルセロナ五輪で銀メダルを、96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した。アトランタ五輪後に残した「自分で自分を褒めたい」は、同年の流行語大賞に。その後も日本初のプロランナーとなるなどスポーツ界の第一線を走り続け、07年2月に競技生活から引退した。現役時代から社会貢献活動にも力を入れ、10年6月には国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初受賞。現在はIOC Olympism365委員会委員や日本陸上競技連盟副会長をはじめ、ハート・オブ・ゴールド代表理事、大学スポーツ協会(UNIVAS)副会長などの要職を務める。(佐藤 俊 / Shun Sato)
佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)など大学駅伝をはじめとした陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。
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