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「くすんだ銀メダルを泣きながら磨いた」 孤立無援、天狗と揶揄され…涙と共に告白した28年前の名言の真実――マラソン・有森裕子

THE ANSWER / 2024年8月11日 13時33分

アトランタ五輪で銅メダルを獲得した有森裕子さん、あの名言の裏には知られざる孤独と葛藤があった【写真:Getty Images】

■「シン・オリンピックのミカタ」#98 連載「あのオリンピック選手は今」第7回・前編

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第7回は、女子マラソンで1992年バルセロナ五輪で銀メダル、96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した有森裕子。2大会連続のメダルという偉業を成し遂げた一方、当時を知る人の記憶に深く刻まれているのは、アトランタ五輪のレース直後に発した名言だ。果たして、その裏にはどんな想いがあったのか。28年の時を経て、涙ながらに当時を振り返った。(前後編の前編、取材・文=佐藤 俊)

 ◇ ◇ ◇

「自分で自分を褒めたいと思います」

 アスリートの言葉として、日本の五輪史上に残る名言である。

 女子マラソンの有森裕子が銀メダルを獲得した1992年バルセロナ五輪に続き、96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した時、涙ながらに語ったものだ。その真意はバルセロナ五輪後、故障などの大きな試練に打ち勝って2大会連続でメダルを獲った自分への労いの言葉だと捉えられていた。

「そうだったら良かったんですけど……」と当時を振り返りながら、そこへ至るまでの道のりを語り始めた。

 本格的に陸上を始めたのは岡山県の就実高校の時で、教師になる目標を抱いて日本体育大学に進学した。1年時、関東インカレ3000メートルで2位、3年時に全日本大学女子駅伝に出場し、区間賞を獲得した。だが、それ以外は高校時代を通じて全国レベルでの出場経験がなく、実績はほぼゼロの状態。卒業後は教師になるつもりでいたが、陸上への思いも断ち切れず、ある時、特別な準備をせずに出場した記録会で好タイムを出したことで、実業団行きを目指すようになる。

 もっとも大学で目立った実績のない選手が入れるような実業団などない。そんな時、知人から「リクルートに空きがある」との情報を得ると、ある大会に来ていた同社の関係者を見つけて直談判。小出義雄監督と千葉で直接会える機会も得て、「自分のやる気を見てほしい」とアピールしたが、反応は薄く99.9%難しいと感じていた。

 だが、その2日後に連絡が来る。

 当時、同社は「リクルート事件」(1988年に発覚、政財界の大物に子会社の未公開株を賄賂として譲渡した贈収賄事件)によって大きく揺れていた。人事担当者から連絡があった際にも、「我が社は大変な時期ですが、これを脱するには1人ひとりのやる気が大事。あなたはそれをお持ちなので、我が社のピンチをご自身のチャンスに変えてほしい」と言われており、まさに千載一遇のチャンスを掴む形で、有森は1989年にリクルートへ入社した。

「陸上は自分にとってライスワーク(ご飯を食べていくための仕事)。自分が生きるための手段、自分が自分であることを証明し、表現できる手段であり、一生懸命に頑張れるもの。頑張れる価値のあるものに全力で取り組めるところに、自分の価値があると思っていました」

 自らの意志を貫き、切り開いた実業団でのキャリア。だが周囲の選手よりも記録で劣るなかでは、当然チャンスは巡ってこない。自分が生きるためには、どうすればいいか――。その1つの答えとして見出したのが、マラソンへの挑戦だった。

 有森自身、以前はマラソンの選手たちが苦しそうに走る姿を見て、とてもやりたい競技には思えなかった。しかし、1988年ソウル五輪の女子マラソンで金メダルに輝いたロザ・モタ(ポルトガル)のゴールシーンを見て考えが変わっていた。

「モタが満面の笑みを浮かべてゴールしたんです。そのシーンがめちゃくちゃ好きで、本当に感動したんです。42キロも走ってきた後に、あれだけ喜べる、輝けるマラソンって凄いな。いつか私もマラソンをやって、自分が感動したように人が感動できる場に立てたらいいなという夢を抱くようになったんです」

■夢中で走ったバルセロナ五輪、銀メダルを獲って変わった意識

 そして入社1年目の秋から本格的にマラソンに挑戦した有森は、初マラソンとなった1990年1月の大阪国際女子マラソンでいきなり2時間32分51秒の走りを見せ、6位入賞を果たす。才能を開花させると、その後も着実に記録を更新。92年バルセロナ五輪女子マラソンの代表選考を巡っては大きな騒動となったが、“3人目”として日の丸をつけて走ることに。本番では批判や中傷など様々な声を吹き飛ばす快走を見せ、銀メダルを獲得した。

「メダルを獲れたことは、もう奇跡でした。足も痛かったんですが、実はレース当日にコンタクトレンズを片方、流してしまい、片目がほとんど見えない状態だったんです。そのことにとらわれて、足が痛いことを忘れてしまいました。それにレース中も不思議なことに、ぼんやりとしか見えないはずなのに、ロードや給水、サグラダ・ファミリアや沿道で応援してくれた地元のおばあちゃんの顔までハッキリ見えたんです。その頃の日本の女子陸上界は、入賞はおろか、海外の選手と競えること自体、夢みたいな状況でした。そういうなかで必死に戦うしかなかったのですが、陸上で生きていこうと頑張った先にメダルがあったんです」

 無我夢中で戦い、銀メダルを獲得した。世界と戦える自信を得たことで、有森は「もっと強くなりたい」と思うようになっていた。

「金メダルを獲ったエゴロワが私のスパートをものともせず、瀬古(利彦)さんの女性版のようにブレの無い安定感のある走りで前へ行った姿を見た時、『私には何が足りないのだろう』『もっと強くなりたい』と思ったんです。それから五輪に対する意識も変わりました。五輪は、最終目標ではない。『ホップ・ステップ・ジャンプ』で言えばステップであり、通過点。人生においてはステップをどう生きるかが、大きなジャンプに繋がっていく。そのためには次の五輪が重要になる。アトランタ五輪で活躍するためには、全力で生き抜いて頑張っていかないといけないと改めて思いました」

 アトランタ五輪までの4年間、強くなるためにはどんな練習をしていけばいいのか――有森はそのことで頭がいっぱいになった。だが、帰国すると小出監督から「次は駅伝な」と、当たり前のように言葉をかけられたことにショックを受けた。実業団にいる限りは、会社の方針や監督の指示に従うのは当然だが、まったく期待されていないなかで銀メダルを勝ち取ったのだ。次の五輪に向けて戦うのが当然であり、その覚悟を決めた自分の意欲を理解してもらえない悲しさを感じた。

「メダルを獲ったことで私自身、勘違いしたところもありましたし、人間的に未熟だったのもありますが、五輪で結果を残したわけです。とにかくマラソンが強くなるための挑戦がしたかったので、なぜ駅伝に戻らないといけないのか、という気持ちが強かったんです」

 そこから有森の身に、“負の波”が押し寄せる。

 小出監督が事情によって現場を離れ、自ら強化を考えなくてはならなくなり、独自にウエイトトレーニングを始めたいと要望を出した。当時はまだ選手側の要望がわがままと捉えられる風潮があり、「あいつは……」という声が聞こえてくるようになる。それでも有森は気にせず、強くなるためにトレーニングを続け、3か月ほど経過した後、復帰した監督から「何、勝手なことをしている。チームに戻り、一緒の駅伝の練習に参加しなさい」と言われた。

 納得できず、気持ちに疑問を持ちながら練習をしていると、今度は両足に異変が起き、足底筋膜炎を発症。それも「気持ちが弱いからだ」と言われ、メンタルもテンションもガタ落ちし、痛みで走ることができなくなってしまった。


五輪2大会連続でメダルを獲得した競技人生について打ち明けた有森さん【写真:荒川祐史】

■アスリートが自らの力で歩む世界を作るために「メダルが必要だった」

 意を決して94年11月に入院して手術を行い、95年2月まで入退院を繰り返しながらリハビリを継続する。リハビリを兼ねて練習をするために、兄がいるニュージーランドに飛んだが、数日後にマネージャーが来て「引退する?」と冷静に聞かれた。チームは引退するものだと考えていたのだ。有森さんは「引退しません。リハビリして戻ります」と伝えたが、このまま試合を決めずに練習していても気持ちが切れてしまうと思い、95年8月の北海道マラソンに出場することを決めた。

「北海道マラソンの時は、正直、復活できるとは思っていなかったんです。監督からも『2時間35分を切れればいいよ』と言われていました。だから何の感情もなく、ただ走れるのが嬉しいと思って走っていたら優勝して、アトランタ五輪の選考タイムを切ったんです。もう監督はびっくりですよ」

 2時間29分17秒で当時の大会新記録を樹立し、マラソン初優勝を達成。そのタイムをもって、有森はアトランタ五輪の女子マラソン代表に選出され、本大会で見事に銅メダルを獲得した。

 そして「自分で自分を褒めたい」という、あの名言がこぼれた。

「あれは、2大会連続でメダルを得たから出た喜びの言葉ではないんです。私が言いたかったのは、五輪でメダルを獲った選手が次の『生きる道』に向かうのに、なぜこんなに苦しい思いをしないといけないのか、ということだったのです」

 当時を振り返りながらそう語り始めると、表情が一気に険しくなった。

「バロセロナでメダルを獲った後、チームのサポートがほとんどなく、故障して走ることができなくなった。ある日、自宅の机の引き出しにしまってあったメダルを見ると、銀なのでくすんでいたんです。それを泣きながら磨いていた時、孤立無援な現場にいる、こんな状況が五輪メダリストの姿なのかなと思ったんです。

 アスリートがより強くなるために自分の力で道を歩もうとすると、わがままだとか、天狗になったとか言われる。金儲けのためとか、アマチュア精神を大事にしろとか、それを正義みたいに振りかざして言われるけど、自分の技術を活かして生きる道を作ることの何がいけないのか。スポーツを自分の仕事としてやれることは素晴らしいことなのに、なぜ当たり前に胸を張ってそう言えないのか。

 私が、それを主張するためには、もう一度メダルを獲ることが必要でした。そうじゃないと誰も耳を傾けてくれない。メダルは『私の話を聞いて』という印籠だったんです。(アトランタ五輪の銅メダルで)それがようやくできる。よく、ここまでやった。そういう思いから『自分で自分を褒めたい』と言ったんです」

 有森はバルセロナ大会からアトランタ大会までの苦しかった道のりを、涙を流しながら振り返った。

 当時の閉鎖的な陸上界で、彼女は想像を絶するような厳しい時間を過ごしたのだろう。あの名言から28年が経過し、選手を取り巻く環境は大きく変わった。アトランタ五輪後の「プロ宣言」を含めて、有森の行動が変革のきっかけとなり、現在に至っている。

 生きていくためにマラソンにすべてを注ぎ込んだ名ランナーは、今もスポーツ界をより良くするために、様々な場所で全力疾走を続ける。スポーツに関わる人の意欲や熱量の大きさが、人々の感動を生むベースになっているのは当時も今も変わらない。

(続く)

■有森 裕子 / Yuko Arimori

 1966年12月17日生まれ、岡山県出身。日体大を卒業後、リクルートに入社しマラソンに挑戦。92年バルセロナ五輪で銀メダルを、96年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した。アトランタ五輪後に残した「自分で自分を褒めたい」は、同年の流行語大賞に。その後も日本初のプロランナーとなるなどスポーツ界の第一線を走り続け、07年2月に競技生活から引退した。現役時代から社会貢献活動にも力を入れ、10年6月には国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初受賞。現在はIOC Olympism365委員会委員や日本陸上競技連盟副会長をはじめ、ハート・オブ・ゴールド代表理事、大学スポーツ協会(UNIVAS)副会長などの要職を務める。(佐藤 俊 / Shun Sato)

佐藤 俊
1963年生まれ。青山学院大学経営学部を卒業後、出版社勤務を経て1993年にフリーランスとして独立。W杯や五輪を現地取材するなどサッカーを中心に追いながら、『箱根0区を駆ける者たち』(幻冬舎)など大学駅伝をはじめとした陸上競技や卓球、伝統芸能まで幅広く執筆する。2019年からは自ら本格的にマラソンを始め、記録更新を追い求めている。

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