日本レスリングに「もう金メダルは無理」 ソ連崩壊で強豪分散…かつての「普通」を覆したパリ五輪
THE ANSWER / 2024年8月12日 19時3分
■「シン・オリンピックのミカタ」#105 連載「OGGIのオリンピックの沼にハマって」第19回
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
今回は連載「OGGIのオリンピックの沼にハマって」。スポーツ新聞社の記者として昭和・平成・令和と、五輪を含めスポーツを40年追い続けた「OGGI」こと荻島弘一氏が“沼”のように深いオリンピックの魅力を独自の視点で連日発信する。
◇ ◇ ◇
パリ五輪が終わった。夏季8年ぶりに有観客で、大会に「普通」が戻ってきた。と同時に「普通じゃない」ことも多かった。JOCが目標に掲げた金メダル20個を達成するなどメダルラッシュは素晴らしかったが、その中には「普通じゃない」ことが多かった。
レスリングの快進撃は「普通」ではなかった。金メダル8個もメダル11個も過去最多。男子は12階級中4階級で金メダル。64年東京大会は5個だったが、当時はフリーとグレコローマンで20階級。実質的には過去最高の成績といっていい。「グレコは勝てない」「中量級以上は無理」「女子も重量級は銅止まり」。すべての「普通」を覆した。
100年前、同じパリで内藤克俊が銅メダルを獲得し、52年ヘルシンキ大会で石井庄八が金メダルを手にして以来続く「お家芸」。とはいえ、88年ソウル大会で佐藤満と小林孝至が連続金メダル記録を守ってから長い「低迷期」に入った。92年バルセロナ大会が赤石光生(現チームリーダー)の銅1個に終わり、その後は金なしが続いた。
レスリング強国ソ連の崩壊で、強豪選手が散らばった。階級削減で日本が得意な軽量級がなくなった。旧ソ連国がアジアにも回り予選が厳しくなった。もちろん、あくまで金メダルは目指したが、世界選手権でも優勝から遠ざかり「もう金は無理」という空気があった。
連続メダル獲得だけは続けたし、2004年アテネ大会からは女子が加わり、吉田沙保里と伊調馨というスーパーな2人が日本を支えた。88年ソウル以降20年もの間「男子は金じゃないメダルをなんとか1、2個」が日本レスリングの「常識」「普通」になっていた。
■潮目が変わった2012年ロンドン大会
潮目が変わったのは12年ロンドン大会。現代表コーチの米満達弘が男子では24年ぶりに金メダルを獲得した。「男子でも勝てる」という空気が流れた。続く16年リオデジャネイロ大会ではフリーの樋口黎とグレコの太田忍がそろって決勝に進出。そして21年東京大会では乙黒拓斗が2大会ぶりに金メダルを日本男子にもたらした。
今大会、男子の金メダリスト4人はいずれも日体大OBで、今も母校で練習を続ける。日体大の松本慎吾監督は「選手の意識は明らかに変わりました。目の前にメダリストがいる。勝てば自分もメダルが取れるんですから」と話した。
松本監督自身もグレコ84キロ級のトップ選手で、五輪にも04年、08年と2大会に出場した。しかし、メダルを目指しながらも7位が最高。当時はまだ目標が漠然としていた。「東京で銅メダルを取った屋比久(翔平)が、同じ階級の日下のいい目標になった。一緒に練習するんだから、強くなりますよ」と松本監督は言った。
伝統のハードな練習に、部内での高いレベルのライバル意識。東京で銀だった文田健一郎とリオ銀の樋口黎の同級生コンビは、どちらが金メダルを手にするかで争う。五輪出場が大目標の低迷期には考えられないこと。だから日体大が強くなり、他校をも刺激した。
「普通」は大きく変わった。日本のレスリングのステージが、1つ上がったと言ってもいい。20年前は「1つでもメダルが取れれば」だったが、今回は「金メダルを何個取るか」だった。「次が大変ですよ」と松本監督は話したが、選手の意識はより高くなっている。
女子の重量級も同じだ。世界選手権5回優勝の浜口京子でさえ銅メダルが最高だった五輪の最重量級。世界のパワーに圧倒されて「日本人には無理」と言われてきた。それでも、鏡優翔は「常識」を信じず。高速タックルで頂点に立った。こちらも、ステージが上がる。
吉田と伊調が戦列を離れた女子は「ステージ低下」も心配されたが、東京大会では4個の金メダルを獲得し、今回は初出場組が金4個を獲得。選手が代わっても成績は落ちなかった。日本の女子レスリングの「ベース」はしっかりと守られている。
■多くの競技にとって五輪は「普通」を変える最大にして唯一のチャンス
すべての競技にある「普通」は、大会ごとに変わる。
長い間世界で勝てなかった卓球は、12年ロンドン大会の女子団体銅メダルを境に頂点を狙うようになった。バドミントンも12年の女子ダブルス「フジカキ」ペアの銀メダルからメダルが期待される競技になった。08年北京大会の太田雄貴からメダルが現実の目標となったフェンシングは、今大会で一気に花を開かせた。
日本人には無理と言われてきた飛び込みや近代五種のメダルも、その競技のステージが上がるきっかけになるかもしれない。約700人の飛び込みや50人の近代五種の競技人口が、増えるかもしれない。
多くの競技にとって、五輪は「普通」を変えるための最大にして唯一のチャンス。今大会メダルに一喜一憂するだけではなく、その経験を強化・普及にどう生かすか。次のチャンスは4年後、ロサンゼルス大会まで回ってこないのだから。(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)
荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。
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