「クビと言われたらそれまで」 ひと月45万円で飛び込んだ台湾プロ野球 武藤幸司が異色経歴でつかんだ“財産”
THE ANSWER / 2024年8月21日 7時13分
■24年前、NPBを経験せず台湾プロ野球に飛び込んだ武藤幸司さん
今季、NPBを経験せずに台湾、韓国とアジアのプロ野球に身を投じる選手が相次いでいる。ただこの動きは、約四半世紀前にもあった。プロ野球の西武で査定チーフを務める武藤幸司さんは九州産業大を卒業した2000年、日本でのプロ経験なしで台湾プロ野球入り。2年目には13勝を挙げるなど主力投手として活躍した。“助っ人”として駆け抜けた3シーズン、そして26歳にして大学日本代表入りした異色の経歴まで振り返ってくれた。(取材・文=THE ANSWER編集部 羽鳥慶太)
「プロ野球」を目指す新たなルートが、できるかもしれない。
昨季まで独立のBCリーグ・埼玉武蔵でプレーした小野寺賢人投手は今季、台湾プロ野球の新球団・台鋼ホークスで序盤、先発陣の一角を担った。また四国アイランドリーグ・徳島の白川恵翔投手は、負傷した元メジャー左腕の代替選手として、6週間限定で韓国プロ野球のSSGランダーズ入りし初登板初勝利。その後は斗山ベアーズに移籍して投げ続けている。各国と比べた時の日本球界の厚みを考えれば、レベルの高い“NPB未経験”投手が海外から注目されてもおかしくない。
実は四半世紀前に、同じような道を歩んだのが武藤さんだ。九産大時代の1999年には大学日本代表候補にも選ばれた右腕。ドラフト候補とも報じられたが日本でのプロ入りはかなわず、台湾に渡った。3シーズンに渡る大活躍の後、西武の球団スタッフとなり、現在は選手の年俸評価に関わる査定チーフを務めている。
武藤さんが初めて台湾に渡ったのは2000年の6月だった。前年秋のドラフト候補と言われながら、大学生にして27歳を迎えるという年齢がネックだったのか指名はなかった。そこで大学の監督から舞い込んだのが「台湾プロ野球はどうだ」という誘い。当時の台湾球界はプロが2つのリーグに分裂したところで、選手が不足していた。
武藤さんは、大学生になる前に社会人野球の強豪・西濃運輸でプレーするという、通常とは逆のキャリアを歩んでいる。台湾行きを決めた当時を「社会人でも戦力外になってますからね……。大学でまたプロには行けなかった。27歳で野球を辞めることも考えていたんですけど、もう少しやってみようかな、というくらいの安易な気持ちで最初は行ったんです」と振り返る。
小柄ながらキレのいいボールを投げていた台湾での武藤さん【写真:羽鳥慶太】
■契約は月給45万円、超シビアな世界「クビと言われたらそれまで」
インターネットがようやく一般的になろうかとしていた時代。台湾のプロ野球については「予備知識が全くなくて。野球するならどこも一緒だろう、くらいの感覚でした」。台湾中部の嘉義市で「台中金剛」の入団テストを受けた。試合前だったという。その日の対戦相手だった「嘉南勇士」では当時、西武の渡辺久信・現監督がプレーしており、声をかけられたのを覚えている。
一度帰国し、合格の報を受けた。今も続く台湾プロ野球の特徴が、外国人選手の入れ替わりが激しいこと。契約からして「年間いくら」ではなく「ひと月いくら」だった。武藤さんに提示された月給は45万円。その上「契約しても、正式ではないというか……。クビと言われたらそれまで。しかも3月から10月のシーズンの間しか給料は出なかったんですよね」。いつ切られてもおかしくないという過酷な条件を背負い、好投を続けた。
1年目は13試合で6勝6敗、防御率2.74。92回を投げて被本塁打はわずか1本だった。翌2001年は18試合で13勝3敗、2完封。2002年も15試合で8勝3敗、防御率2.26。日本のアマチュアと台湾のプロのレベルについて、当時の肌感覚を聞くと「やっぱり野球に大ざっぱな部分がありましたね。身体能力の高い選手は多かったですが、日本のような細やかさがなかった。プロフェッショナルというよりは、お国柄というのかな、楽しむ感じでみんなプレーしていましたね」。まだまだ技術の差もあった。
武藤さんの投球スタイルは140キロほどの真っすぐと、制球力が生命線だった。上位から下位までフルスイングしてくる打線を、面白いように手玉に取った。
現在は台北に3万人を収容できるドーム球場が開場するなど、台湾プロ野球を取り巻く環境も大幅に進歩している。ただ当時の印象は「(球場が)暗かったですね……」。武藤さんがプレーした台中金剛の本拠地は、市内中心部にある大学の球場。設備は貧弱だった。「今だに覚えているのは、試合中の球場に犬が入ってきたんですよ。相手の先発が石井丈裕さん(元西武)で、私はベンチにいたんですが、びっくりしますよね。バックネットの前に突然現れてね」。今となってはハプニングもいい思い出だ。
公用語の北京語がわからないまま飛び込んだが、野球では言葉に苦労することはなかった。ただ「タクシーに乗ると言葉が通じなくてね……。いつも違うところに連れていかれちゃうんです。言葉を教えてもらっても、野球仲間には通じる。発音も分かってくれる。でも外に出ると本当に難しかった」。マンションを借り上げていた合宿所と球場の間はバスで通っていた。
■台湾選手が興味を持つ“先輩後輩”関係「本当にみんな人がいい」
台湾で2年プレーした2001年のオフ、ダイエー(現ソフトバンク)の入団テストを受けたこともある。結果は不合格。「そんなにガツガツしてなくて、これも一つの経験くらいの感じでしたね」。翌年はシーズン途中にまた台中金剛へ戻った。
最初は不安だった台湾生活になじんでいたのも、再び台湾でのプレーを選んだ理由だったのかもしれない。「元々行動的なほうじゃないし、始めは心細さしかなかったです。でも台湾は本当にみんな人がいいんです。“武藤”は中国語では“ウータン”と読むんですが、みんな日本流の先輩後輩の上下関係に興味を持って『ムトウさん』って呼んでくれましたね」と懐かしそうだ。
そんな台湾生活の終わりもまた、突然だった。3年目のオフ、台湾では当時2つ存在したプロリーグの統合が進められると決まった。外国人枠が不透明になり、翌年プレーできるかわからないという状況に立たされた武藤さんは、帰国を選択。ちょうど西武から打撃投手の話が高校の監督経由で持ち込まれ、そこから裏方としてNPBの世界で生きてきた。台湾でプロになるという選択は、今考えても大正解だったという。
「何が、じゃないんです。異国の地で経験したことすべてが、財産になるんです」
西武は伝統的に、台湾球界との結びつきが強い。後にミンチェ(許銘傑)や張誌家、郭俊麟といった選手と接することになる。昨季まで在籍した呉念庭は、台中金剛で選手と監督の関係だった呉復連氏の息子だ。苦労も楽しさもあった3シーズンは、間違いなくその後の人生を豊かにした。(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)
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