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“26歳”の大学日本代表が誕生したワケ 「人生で一番落ち込んだ」戦力外通告経て見つけた新たな夢

THE ANSWER / 2024年8月21日 7時14分

現在は西武で選手の査定業務を担当する武藤さん【写真:羽鳥慶太】

■西武スタッフの武藤幸司さんは“26歳”で大学日本代表に

 大学野球の日本代表は毎年編成され、今年は欧州で2つの大会を戦った。中心を占めるのは最上級生となる4年生だ。現役入学していれば22歳、入学時に1年浪人したとしても23歳までの選手が大半となる。ところがここに、26歳の投手が名を連ねたことがある。現在西武で査定チーフを務める武藤幸司さんは、1999年に26歳で日米大学野球選手権に出場し、その後台湾でプロ野球選手となった。26歳の大学日本代表は、どうやって誕生したのか。数奇な野球人生を振り返ってくれた。(取材・文=THE ANSWER編集部 羽鳥慶太)

 大阪で生まれ育った武藤さんは、甲子園を目指して長崎県の島原中央高に進学。後にロッテなどでプレーする左腕の藤田宗一投手とチームメートだった。甲子園出場はならなかったものの、2年次からエースとなり、九州大会にも出場。卒業した1991年には社会人野球の西濃運輸入りし、将来はプロ入りもと夢が広がった。

 ところが、3年後に待っていたのが“戦力外通告”だ。当時の社会人野球は金属バット全盛期。打者が圧倒的に有利な状況下で「全く歯が立たなくて、公式戦の登板は2試合だけでした」。晴れ舞台の都市対抗野球やその予選での登板も一度もなかった。

「落ち込みましたね。まさか3年で……と。人生で一番落ち込んだかもしれません。結果も出していないし、危ないかなとは思っていたんですがね。野球をできなくなるというのがとにかく響きました」

 社会人野球の世界では、現役引退を「上がる」と表現する。その後の長い会社員生活の始まりなのだ。武藤さんも出身地の大阪にある事務所に配属され、航空貨物を扱った。2年働いた時だ。高校時代の監督だった仲宗根朝也さんが出張でたまたま大阪へ来た。できればまた野球をやりたいと訴えると「今からでもできるよ」と、新たな道を教えてくれた。


大学卒業後は台湾プロ野球でも投げた【写真:羽鳥慶太】

■23歳の大学1年生に「周りのほうが難しかったかも」

「将来的に高校の指導者をしたいという話もしたんです。それなら教員免許もいるし、大学に行かないと、となって……」。九産大に入学し、ストレートなら卒業しているはずの23歳で野球部の門を叩いた。

 現在よりもっと“タテ社会”文化が絶対だった時代だ。年増の新入生は、大学野球の常識に当てはまらない部分もあった。「周りのほうが難しかったかもしれませんね。1年生なのに年上なんですから。入ったからには1年生の仕事をこっちからするんですが、どうしようという感じでね。でも徐々になじんでいきましたね」。

 当時の福岡六大学リーグは、九州共立大の全盛期。「プロも何も、そんなもん無理だと思っていた。せっかく入ったんだから、共立大を倒して全国に行ってみたいなと、それくらいに思っていたんです」。そんな思いとは裏腹に、武藤さんはすぐに頭角を現す。

 金属バットの社会人野球でもまれていた武藤さんには、木製バットを使う大学生を詰まらせる感覚が新鮮だった。「それまでは詰まらせたと思ってもスタンドまでもっていかれちゃうんですから」。4年生の春には全日本大学野球選手権で8強に進出。優勝した青学大との試合に1-2と惜敗した。「まさかですよ」と思っていた日本代表入りの知らせが届いたのは、その直後だった。

 日本で行われた大会では、5試合中2試合にリリーフ登板。佐藤友亮(慶大)や阿部真宏(法大)といったメンバーとはその後、3年間の台湾プロ野球生活を経てスタッフとなった西武で再会することになる。

 武藤さんは言う。「人生の時々で、恵まれていたんです。引き上げてくれる人がいたんですよ」。社会人野球で戦力外とされ悶々としていたあの時「もう一度野球をやりたい」と言わなければ、51歳になった今も野球に関わり続ける人生は存在しなかった。夢や目標を持ち続けること、口に出すことが人生を切り開いてくれた。(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)

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