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異国でペンキ塗りバイト生活「五郎丸たちは活躍してるのに…」 ラグビー人生のどん底、悲哀…辿り着いた2015年の栄光

THE ANSWER / 2024年8月20日 17時3分

2015年W杯出場時の堀江翔太【写真:Getty Images】

■堀江翔太インタビュー前編 これまでのラグビー人生と日本ラグビーのこれから

 ラグビー・ワールドカップ(W杯)4大会出場など日本代表の中心選手として活躍して、2023-24年シーズンで現役を引退した堀江翔太に話を聞いた。HOというスクラムの要と同時に、多彩なパスやキックでスタンドを沸かせ、日本人選手初のスーパーラグビー挑戦も果たした。プレーだけにとどまらず、洞察力とリーダーシップで桜のジャージーを牽引して、2015年W杯での南アフリカ代表撃破、そして19年大会のベスト8進出と、輝かしい足跡を残してきた。16年間に渡るトップレベルのラグビー人生、日本ラグビーのこれから、そしてジャージーを脱いでからの“第2章”と、ラグビー界のラスボスが、その思いを語ってくれた。(取材・文=吉田 宏)

 ◇ ◇ ◇

 国内シーズンが終わり、若手メンバーらが来季へ向けたウェートトレーニングなどを再開し始める埼玉・熊谷の埼玉パナソニックワイルドナイツのクラブハウス。堀江翔太は、現役時代と変わらない“あの髪型“でやって来た。

「あ、これね。 2018年からかな。奥さんがね、YouTube見てね。僕がやっていた針金パーマからドレッドにできるらしいよと。それきっかけですね。僕自身は髪型に関しては全然(こだわりがない)なんで。奥さんのおかげです、はい」

 いまやトレードマークにもなっているドレッドロックをかきあげながら、語り口は淡々と、飄々と。そんな振る舞いが、このレジェンドの飾り気のないキャラクターを物語る。最後の戦いから時間が経った心境も、堀江らしい。

「久々にゆっくりしたという感じですね。1週間何もせずにという、15年間してこなかったことなので。『あ、そうか。練習しなくていいんか』とか『明日から練習やとか考えんでいいんや』というのがすごくストレスフリーで、なんとなく不思議な感覚です」

 昨季リーグワン開幕前の23年12月に行われた引退表明会見でも、「未練なし」と語っていたが、最後の実戦からすこし時間が経っての思いも変わらない。

「悲しいとか寂しいとか、ないんですよね、全然。一つもないんです。 終わったな、という感覚がデカいですね」

 人気、実力の両面で日本代表の苦境の時代から黄金期までを知り、自らのプレーヤー人生も様々な紆余曲折を辿って来た。心境としてあるのは、達成感でも寂しさでもなく、安堵感だ。

「どの試合もプレッシャーを感じてきたんです。特に代表はね。国内リーグも、15年間もやっているとキツイものがありましたよね。それがなくなるんやと思うと、ちょっと安心感の方が大きいかな」

 その口調には、後輩たちからラスボスと呼ばれてきた男でも、試合毎のプレッシャーは尋常ではなかったことが滲む。重圧の中で戦い続けてきた選手としてのハイライトを聞くと、迷いも澱みもなかった。

「2015年のW杯ですね。確かに19年はすごかった。でも、2011年大会を知っているんでね」

 ホスト国として迎えた2019年W杯で、日本代表、いや日本は、いままでに見たことのない光景を目撃することになった。数年前まで誰も信じなかった、日本代表がアイルランド、スコットランドらを撃破して世界トップ8に駆け上がったのだ。その躍進に、国内のラグビー人気が沸騰し、ワイドショーも血眼でラグビーと日本代表を追いかけた。日本ラグビーの大きなエポックとして語り継がれる快挙だったが、堀江にとっては、その4年前のイングランド大会こそが、最も記憶に残る特別な瞬間だった。

「15年大会以前の日本のラグビーを経験していると、やはりあの大会が特別でした。それまで、ここ熊谷での試合なんか(観客)300人くらいじゃないですか? 日本のラグビー全体がそんな感じだったので、15年にあれだけ注目を浴びると、それまでとの段差が凄かった」


競技の第一線を振り返り、引退後のこれからを語った【写真:吉田宏】

■ラグビー人生のボトム「大学を出て2年間NZに行った時は結構きつかった」

 15年大会の初戦で優勝候補の南アフリカから歴史的な金星を挙げた“ブライトンの奇跡”は、海外でドラマ化もされている。それほどに、日本どころか世界中にインパクトを残した勝利だったが、この快挙までは日本国内でのラグビーへの関心度は決して高くはなかった。13-14年シーズンのトップリーグ1開催平均観客は4300人。堀江の発言はだいぶディフォルメされているが肌感覚としては間違っていない。W杯へと渡英する時も、ファンが空港に大挙見送りに来るような光景はなかったが、結果的にプール戦敗退で帰国した空港には数百人という人たちが待ち受けていた。

 堀江の脳裏には、チームへの期待、注目が高まる中で臨んだ日本開催での8強入りという快挙よりも、グラウンド内では人を人と思わぬほどのエディーの過酷な練習に耐え、ピッチの外では“マイナー競技”の悲哀を何度も思い知らされたからこそ、15年大会後の報われた記憶が鮮烈に焼き付けられている。

 2015年がラグビー人生のハイライトなら、ボトムはどこだったのだろうか。そんな質問に、当時を思い返すように堀江は遠くを見つめた。

「今思うと、大学を出て2年間ニュージーランド(NZ)に行った時は結構きつかったですね。ほんまにこれを選んで大丈夫だったのかなという不安感がありましたね」

 帝京大を卒業した堀江が選んだのはクライストチャーチへの留学だった。大学時代のNZ人コーチがカンタベリー協会に在籍していたことにも助けられ、2シーズンのオファーを受けたが、所属したのは同協会が母体となるスーパーラグビー・クルセイダーズのアカデミー(育成機関)だった。当時のトップリーグ参入チームのほとんどが堀江を誘っていた。当時でも、海外挑戦を条件に企業チームと契約するに有望選手はいたが、引く手数多の堀江は敢えて後ろ盾がないままの挑戦を選んだ。

「大学までNo8でしたけれど、上を目指すにはHOじゃないと無理だと決めていました。でも、トップリーグチームの誘いの多くはNo8をしながら(HOの)勉強していいよというものだった。それしちゃうと、怪我人が出たりしてNo8やFLやる時間が増えるとしゃあないと思っていたんです。国際舞台でプレーするのも遅れるやろなというのもありましたから、環境変えるしかないと考えてました」

 帝京大時代の堀江は、柔軟なステップ、フィジカル、スキルを併せ持つ機動力抜群のFW第3列として大学ナンバーワンの実力だったのは間違いない。だが、日々国際化が進む日本ラグビーの中で180cm、100kg程度のサイズではFW第3列での成功が難しいことは堀江自身が一番強く実感していた。多くの日本人バックローに倣ってのHO転向は当然の選択だったが、中途半端な挑戦だけはしたくなかった。その思いが、3列で起用される可能性がなく、HOに専念できるであろうNZでの挑戦を強く後押しした。

 留学を選んだ理由は、もう1つあった。当時の堀江にとっては、将来思い描く理想が日本では叶えられないものだったことだ。

「その頃なりたかったのは日本代表ではなくオールブラックスでしたからね。もう、とりあえずスーパーラグビーに道開くために(NZに)行かなあかんという思いだった。それに、海外に行って失敗するんやったら早めだぞと思って行ったんです。けれども NZに行ったら、日本国内での色々な情報が聞こえてくる。五郎丸ら同期生が活躍していたりね。日本じゃ皆ラグビー漬けの充実した生活を送っていたのに、僕はバイトでペンキ塗りとかしながらラグビーをしていた。上手くなっているんかな、HOとして良くなっているのかなと思いながら過ごしていた時期だった」

 名門クルセイダーズを擁するカンタベリー協会との契約とはいえ、アカデミー選手では生活していくには十分なサラリーではなかった。アルバイトとラグビー漬けの毎日。日本国内では一目置かれた堀江も、寮の管理人をして、壁のペンキ塗りなどで生活費を補っていた。成功する保証がないまま、バイトに汗しながら慣れないHOでの挑戦を続けていたのだ。

「不安感と海外の生活のストレスもあって結構大変でした。でも、それがあったから、次のオタゴだったり、レベルズだったりにすんなりと入っていけたのかも知れないですね」

 このラスボスのキャラクターの一端でもある開拓精神については後に触れるが、その源泉はクライストチャーチでのタフな生活にあるようだ。そして留学先がカンタベリー協会だったことが、堀江自身も想像しなかった、その後の日本でのサクセスストーリーに決定的な影響を及ぼすことになった。

「カンタベリーで1年目のシーズンで、トップチームへの招集はなかった。そこで、お金も十分じゃなかったので、レンタル移籍のような解釈で日本のチームに参加しようという話になったんです。で、カンタベリーから紹介されたのが三洋電機とサニックス。大学時代に誘われていたチームだったら迷わずそこを選んだけれど、どちらも僕に声をかけていないチームだったし、どこにグラウンドがあるかも知らない。正直どっちでも良かったんで、カンタベリーのスタッフに決めていいと話していました」

■38歳までトップレベルで活躍できた理由「ラグビーをしていて、ずっと思っていることが…」

 最終的に三洋電機への“出稼ぎ”が決まったのは、カンタベリー協会の高名なトレーニングコーチだったアシュリー・ジョーンズが三洋に派遣され、仕事をしていたためだった。

「サニックスのほうが出場する機会は多いかも知れないと聞いていたが、三洋ならアシュリーの下で体が鍛えられるし、カンタベリーでやりたいメニューが出来るという判断でした。リーグ開幕の1、2週間前に合流しましたね。もしアシュリーがサニックスにいたらと思うと、三洋に行けたのが正解だったと思います」

 カンタベリーでは当初の2シーズンという契約を延長することは叶わず、日本でのプレーを決断した堀江だったが、三洋電機入りを決めたのは“出稼ぎ”の縁があったからだった。この偶然が、堀江のラグビー選手としての可能性を大きく広げることになった。留学時代まではNZ代表を目指していたために、日本代表を当時率いていたジョン・カーワンHCからの誘いを断っていたが、帰国1年目の2009年シーズンから目標は桜のジャージーに切り替え、代表デビューも果たした。

 そして、所属チームの理解もあり、三洋電機と契約をしたまま、2012年にNZのオタゴ協会と、翌13年にはオーストラリア・メルボルンが拠点のスーパーラグビーチーム・レベルズと契約。日本初のスーパーラグビー選手として、世界最先端の舞台での道を歩み出した。

 三洋電機入団からプロ選手として15シーズンに渡り活躍を続け、日本代表歴代6位の76キャップ、W杯出場4度という輝かしい足跡を残した堀江だが、この日本を代表する2番にとって、ラグビーはどんなものだったのだろうか。

「う~ん、難しいところですよね、ホンマ。でも、趣味みたいなもんなんですよ。だから、それを長く出来たことが有難いです。趣味でお金もらえて、家庭持ててということを感謝せなあかんなと思いながらプレーしてましたね」

 趣味と言い切るところが大らかな堀江らしいが、38歳までトップレベルの選手として活躍出来たのは、常に「学び」を楽しむという姿勢が根源にある。

「ラグビーをしていて、ずっと思っていることがあるんですよ。赤ちゃんっていつもメッチャ楽しそうじゃないですか。あれって1日1日で出来る事がどんどん増えていくからなんですよね。あの成功事例が楽しいんです。達成感があるから滅茶苦茶楽しい。僕もそれとほとんど一緒なんです。あ、これ出来るようになったとか、試合でこういうタックル出来た、びびらなくなったとかの繰り返しの15年間ですよね」

 輝かしいラグビー選手としてのキャリアの後の選択肢も、堀江らしい我が道を行くものだった。引退を表明した昨年12月の会見のときから語っているのが、トレーナーとラグビーコーチのハイブリッドのような挑戦だ。多くのトップ選手が、引退後はラグビー指導者の道を歩み、リーグワン発足後はチーム運営や広報などに進む人材もいる。選手としての経験と実績をセカンドキャリアでも生かしたいのは、とりわけトップレベルで活躍した選手なら当たり前だ。堀江の選択は、自分の強みであるラグビーの経験からは一見ずれているように見えるが、実は現役時代の経験が色濃く影響している。

「30歳で佐藤さんに出会えたというのが大きいですね。あの頃、従来のトレーニングを続けていて、ちょっと限界を感じ始めていたんです。そこで佐藤さんの助けで、体のシェイプ(形)が変わる、試合でこうやったら自分が思った以上にパワーが出せた、というのを実感できた。その成功体験があったから、ここまで出来たと思います」

 「佐藤さん」とは、アスレチックトレーナーの佐藤義人氏のことだ。第1次エディージャパンでトレーナーを務めていた時に、首の故障に苦しんでいた堀江が治療、施術を受けてから信頼関係を深めてきた。状態が悪い時には、代表合宿を一時離脱して、京都にある佐藤氏の治療院で施術を受け、オフ機関の体のレストア、強化のための“佐藤詣”は当たり前というほどに信頼を寄せる。堀江以外にもSO松田力也(トヨタヴェルブリッツ)ら多くのトップ選手、チームがサポートを受けている。その佐藤氏と連携して、アスリートのリハビリと同時に体力強化などに取り組んでいこうというのが堀江のセカンドキャリアだ。

「これからは、ラグビーに限らずいろいろなスポーツ選手を支えていきたいなという思いがありますね。自分がやって来たことを、まず知ってほしいなという気持ちです」

■日本のアスリート育成にも関心「ラグビーだけじゃなく、スポーツ全般で」

 選手生命に関わるような頚椎の怪我から、昨秋のW杯では4試合すべてに出場して、内3試合で先発するまでに復活した堀江だが、ハビリと同時に、佐藤氏と二人三脚の取り組みの中で実体験した、筋肉の鍛え方や関節の稼働領域を広げることによるパフォーマンスの向上など、治療以外のポジティブな経験も、多くの現役アスリートに役立つはずだと確信する。

「新たなチャレンジについては、このまま埼玉WK所属という肩書でやるのかはチーム次第になると思います。僕自身はある程度はラグビーに携わりながらやりたいと思っている。なので、まず初めはパナソニックに携わりながらじゃないですか? そこをやりながら、佐藤さんがトップに立って、今の僕みたいな現場で動くようなやつが、これからどんどん引退してくるから、いろいろなところに散らばって教えていければいい。そんなメンバーが揃えば、佐藤さんと僕が選手たちを見て、必要な修正をしながら色々と周っていければ一番いいかなと思うんです」

 堀江の選手としての経験値を考えれば、ラグビーコーチとしての手腕に期待する声は少なくないはずだが、ジャージーを脱いでも現役時代と変わらないパイオニア精神に満ちているのが堀江らしい。その眼差しは、日本のアスリート育成へ向けられている。

「先々を考えれば、個人的には自由が利くような立場がいいかなと思っています。ラグビーだけじゃなく、スポーツ全般でやっていきたいんです。幅広く色々なアカデミーみたいなものが出来れば、僕の選手としての経験も生きるでしょうね。違うスポーツ選手もどんどん集めれば、中学まで野球選手として頑張ったけど肩の故障で無理やったからとゴルフに変わりたいとか、そんな子供たちの可能性を広げられるアカデミーが理想です。なかなか咲かへんけど違うスポーツやったら結構うまくいったとか、佐藤さんが体を診て、この箇所の動きがいいんやったら、このスポーツやってみればいい、というようなアドバイスを掛けられたりね。

 せっかくスポーツをやりたいと楽しんでいるのに、日本だと1個のスポーツをやることがいいとされている。それをちょっと色々なスポーツをやりながら、最終的にこのスポーツだと、小学校、中学校の間に挑戦出来たらいいと思うんです。日本全国に、中学くらいまでは色々なスポーツをやらせる環境を作って、それがさらに佐藤さんのところで、怪我をしない、体の使い方やプラスアルファの才能ある選手たちを育てたり、目が出にくい選手たちには色々な競技をやらせて こっちの方がいいんじゃないかというアドバイスもしていく。トップ選手が、ちょっと教えただけで良くなったりすると思うので プロの指導に佐藤さんの体の使い方も入れながら出来れば、日本のスポーツ界のレベルがぐっと上がるんかなという壮大な話ですけれどね。まぁ頑張っていきたいなと思っています」

 新たな挑戦が始まる“第2章”も楽しみだが、後編では、堀江自身が思う埼玉WKの強さの秘訣、そして再始動した日本代表や、日本ラグビーへの思い、提言を聞く。(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)

吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

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