1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

「ラグビーが野球に並ぶくらい有名に」 最強野武士軍団、エディージャパン…日本ラグビーの“これから”に託す思い

THE ANSWER / 2024年8月20日 17時4分

ワイルドナイツの中心として15季に渡り活躍した堀江翔太【写真:Getty Images】

■堀江翔太インタビュー後編 これまでのラグビー人生と日本ラグビーのこれから

 前身の三洋電機時代から15シーズンに渡りワイルドナイツの中心選手として活躍して、昨季でジャージーを脱いだ堀江翔太。このレジェンドの引退で、チーム内には三洋電機のジャージーに袖を通した選手はいなくなった。堀江のラグビー選手としての足跡は、そのままワイルドナイツが国内最強へと登り詰める道程と時を同じくしている。最近2シーズンは優勝候補最右翼とされながら決勝で苦杯を喫し、堀江自身も花道を飾れなかったが、真紅からブルーへと変わった“野武士軍団”のジャージーにどんな思いを抱いているのか、そして新時代の野武士たち、日本ラグビーに託す思いを聞いた。(取材・文=吉田 宏)

 ◇ ◇ ◇

 スポーツ選手には、個人的な浮き沈みもあれば、チーム自体の好不調の影響を受けることもある。状況次第でチームの方針とぶつかることも少なくはない。だが、ワイルドナイツでの長い現役生活の中で、堀江はチームを離れたい、嫌だと思ったことはなかったという。

「パナソニックでは、なかったですね。何もかんも居心地良すぎたくらい。いろいろ意見も出し合えていたのでね。常にパフォーマンス出すために自分も犠牲を払ってトレーニングをしたり、試合をしたりというのもやったからこそ、チームも評価をしてくれてたと思います。なので、ここを出たいと思ったことは全然ないですね」

 何度も覇権を掴んだジャージーを脱いだいま振り返っても感謝の思いが強いのは、堀江自身が決めた海外挑戦での、チームの理解と支援が大きく影響している。

「いろいろ挑戦させてもらいましたよ。オタゴに行く時もそうですし、レベルズもそう。レベルズでは、こっち(埼玉)と契約をしながら行けたので、収入とかサポートという部分ですごく手助けしてもらったと思っています。前例のないことだったので、なおさら有難いなと感じましたね」

 入団とほぼ同時に、日本代表も含めて主力選手として活躍してきた堀江だが、チームは戦力の低下に成り兼ねない海外挑戦も前向きに受け入れてきた。2012年には、ニュージーランド(NZ)のスーパーラグビーチーム・ハイランダーズを運営するオタゴ協会と契約して、同地域代表(オタゴ)として国内選手権でプレーすると、翌2013年にはオーストラリアのレベルズと契約を結び、日本選手初のスーパーラグビープレーヤーが誕生した。

 同時にハイランダーズ入りした田中史朗の2人が日本選手の新たな道を切り開き、松島幸太朗(東京SG)、稲垣啓太(埼玉WK)らが続々と海外挑戦へと旅立ったことが、日本代表のその後の躍進に繋がったのは言うまでもない。堀江にとっては、既に家族を持つなど大学卒業直後の単身のNZ挑戦とは異なる環境の中で、所属チームの理解は有り難かった。

 埼玉WKにとっても、選手の海外挑戦は“慈善事業”ではなかった。堀江、田中という代表でも活躍する選手を欠くリスクはあったが、それ以上に、この2人のようなトップ選手が在籍して、海外挑戦にも前向きというチームイメージを発信することのメリットを考えていた。チームによっては海外挑戦に消極的になる可能性はあったが、埼玉WKの独自の視点、価値観と先見性が、堀江の可能性を押し広げた。

 常に国内トップクラスの実力を保持し続けてきた埼玉WKだが、堀江自身は、このチームの個性、そして魅力をこう考えている。

「スタイル自体はかなり総合的なラグビーをするので、僕にはそれも良かった。FWだけとかじゃないし、アタックに関しても、誰でもパスやランニングを使いながら戦うラグビーをやってきた。ディフェンスもアタック同様に大切なものという考えも持っていた。まさにザ・ラグビーという感じのチームですよ」

 ファンなら良く知る、スクラムやラインアウトに止まらず、多彩なパス、キックといった個人技でも魅せる堀江だが、埼玉WKがポジションやセオリーに捉われず、自由な発想でプレーすることにも柔軟性を持ったチームだったことが成長を促した。

「このチームにおったからこそ、他のチームでプレーしたときに頭を柔軟に働かすことが出来たんだと思いますし、もちろん過去に色々な経験したからこそ、日本代表に行っても、どんなプレーをしたらこのチームが生きるんやというふうに頭を柔らかく出来た。こういう柔軟性も、ここ(埼玉WK)のおかげかなと思っています。どこのチームに行っても、その経験が生きるやろうなと僕は思います。他の選手たちにも、そうなってほしいなと思っています。埼玉に来たら、もしその後に他のチームへ移籍したとしても、自分の経験や頭の柔らかさを使えばいいプレーが出来るはずだし、皆にそういうプレーをしてほしいんです」


堀江が日本ラグビーに託す思いとは?【写真:吉田宏】

■堀江が身をもって知る埼玉WKの強さ

 堀江の言葉と埼玉WKのプレースタイルから判るのは、「いいチーム」「いい選手」というのは、プレーや考え方に柔軟性を持つことであり、トータルなラグビーが出来ることだ。試合で刻々と変化する戦況の中でも、選手誰もが様々な対応を出来ることが、このチームの強さの背景にある。

「僕の中で、いい選手というのはそういうことなんです。『これだけ』というのじゃなくて、色々なポジションのことをこれまで学んできた。そういう トータルなラグビー、頭の中をクリアにしてプレー出来る選手になってほしいなと思いますね」

 チームの魅力、キャラクターからもう一歩踏み込んで、埼玉WKの強さについても、堀江は言及している。

「これはね、選手の意見だったり、選手主導で練習を作ったりという部分がありますね。それを聞いてくれて、うまいことコントロールしてくれるスタッフ、人材がパナソニックにはいる。僕のトレーニング自体を取っても、ここのS&Cメニューは(やらなくていいと)許してくれるとか、こんなサインプレーしたらいいんじゃないか、こういうディフェンスやりたいんですけれどということに、耳を傾け、取り入れてくれるところが強い理由じゃないかと思っています」

 柔軟性や選手の意見も聞きながらチームを強化していくことで、選手側も自主性を培っていける。こんなチーム運営が埼玉WKの魅力であり、強さの源泉でもある。その一方で、選手たちもリーダーの下でしっかりと一体感を持って戦う姿勢が、埼玉WKのチームとしての懐の深さを創り出している。

「コーチやリーダーが、しっかりと戦術、戦略を持ってきて、それをチームとしてやろうとするのもいい所かな。愚痴や、あっちの方がいい、こっちの方がいいじゃなくて、リーダーがそういう不満がないように、しっかりミーティングをしているし、その場で、これはしていいのか、いけないのがという会話が生まれるのが、このチームです。選手主体で考えていくことが多いのも強さの秘訣でしょうね」

 NZでも名将と呼ばれるロビー・ディーンズ監督が就任したのが2014年(当時の肩書はヘッドコーチ)。この指導者の手腕がチームの躍進を支えているのは間違いないが、堀江はコーチンググループの役割分担や立ち振る舞い見つめてきた。

「実は、あまりいいシーズンじゃない時は、ロビーさんが現場に下りてきて、こうやああやとやっていたんです。でも、昨季もそうですけど、いい状態のときは、監督として上にちゃんと居て、現場はコリーさん(ホラニ龍コリニアシFWコーチ、元日本代表No8)らが動いているんです。それをロビーさんが上から見て、意見をどんどん取り入れて、このプレーを使うか、使わないかというのを振り分けていく。それが上手い事いってるかなという感じはしましたね」

 チーム内の風通しの良さ、選手それぞれが意見を言い易い柔軟性があるときは、チームの成績も上がっているようだ。そんな土壌は、ディーンズ監督就任以前からこのチームで受け継がれてきた。

「昔からそんな感じだったんですよね。例えば、オフが明けるタイミングでいつもフィットネステストをしていたんですけど、コレ本当にいるのとかいう声が出てきたんです。2週間休みがあって、そのオフ明けのテストだったんですけど、それはオフの後半の1週間はちゃんと練習をして、休むなということなのかという意見をコーチングスタッフが聞き入れて、だったらテストのタイミングを後にずらそうというのがウチなんです」

 背景にあるのは、前身の三洋電機時代から様々なチームを渡り歩いてきた選手や、大学途中でドロップアウトした選手が集まって来た伝統だ。そんなさまざまな背景や価値観、経験値を持つ選手も受け入れて、柔軟にチームを運営してきたことも、このチームのポジティブな個性になっている。

「だから、選手の意見を聞くことという伝統が無くなってしまう時が来るとしたら、それは怖いですね。例えばロビーさんが辞めて、新しいコーチ陣が選手の声を聞いてくれず、チームからも意見が出ないようなことになると大変やなと思います」

 チームは常に優勝候補とされながら、リーグワン初年度の優勝の後は2シーズン連続で決勝戦で敗れている。2007年度の日本選手権初制覇までも、勝てそうで勝てない時代が続き“シルバーコレクター”と呼ばれていたチームだが、堀江は2シーズン連続の決勝敗退をどう受け止めているのか。

■日本代表は「全てを賭けていいような場所やと思います」

「先ずは良かったこと、悪かったことの見極めが大切だと思います。負けたからと言って全部悪かったわけじゃないし、だからと言って意地になって、良かったから何も変えへんというのも絶対良くないと思う。何かマイナーチェンジをかけながら、ちょっと選手のやる気が出るようなアタックやディフェンスのプランとかを考えなアカンなと思います。後は、やっぱりラグビーというのは判断のスポーツだと思うので、1秒1秒全てのプレーに判断が関わってくる。アタックに関して言えば、もっともっと判断を入れていけるような練習を意識して、いくら外れたと言っても自分の判断で、自分の前が開いたら自分で勝負を仕掛ける方がいいですし、そういう判断が出来るプレーを心がけてほしいなと思いますね」

 堀江の言葉からは、チームの課題だけではなく、ラグビーという競技で何を大事にしてきたかが読み取れる。それは、ラグビーの持つ「自由さ」であり、その自由さのために必要な「判断力」だ。それが、ラグビー自体が持つ魅力でもある。そして、栄光のジャージーを脱いだいま、残された後輩たちにこんな思いを抱いている。それはジャージーを脱ぐレジェンドから選手へのメッセージだ。

「ホンマに、いま言ったことです。自分たちで動かないと強くならない。これを、ずっと続けてほしいですね。 もちろん1個のプレーの判断の良し悪しというのはありますけれども、大まかなところは、自分たちでこのチームを良くしていこう、動かしていこうという思いがないとね。後は戦術戦略を口開けて待っているだけじゃ絶対強くならないと思う。スタッフも選手が食いついていけるような面白い戦術は何かと考えていって欲しいと思います。それが結構難しいんですけどね」

 必要なものを選手が自分たちで見極め、自発的に動いて手に入れること。そこをコーチ、スタッフが上手くサポートしていくような環境が、強いチームには不可欠なのだ。

 では、埼玉WK同様に長くプレーしてきた日本代表というチームは、堀江にとってどんな存在だったのだろうか。

「嫌でもW杯でラグビー人生が変わりましたから。なので、全てを賭けていいような場所やと思います。それでW杯で花が咲けば、がらっとスポーツ人生、自分たちの人生が変わる。そんな場所ですよね」

 人生が変わった瞬間が、前編でも触れた堀江にとっては「特別」と語る2015年大会だった。大会へ向けた準備の段階を取材して感じていたのは、日本開催が決まった19年大会を見据えて、イングランドでは世界にインパクトを残さなければいけないとういう選手たちの決意、そして危機感に近い使命感だった。そんな中で掴んだ歴史的な勝利が、自分たちの想像を超えた熱量で日本にまで発信されたことが、4年後の歴史的な躍進の源流になったのは間違いない。

 その一方で、さらにジャンプアップを期待された23年大会は、プール戦敗退という結果に終わっている。大会前にすでに代表引退を表明していた堀江も“花道”を飾れなかったが、そこには日本が新たなステージに足を踏み入れたという実感もあった。

「やっぱり、周りが本気で日本のことを見始めたという感じはしました。15年や19年は、対戦相手も日本に対して『まぁまぁ大丈夫だろう』みたいな感覚でいたのが、19年にベスト8という結果を残した後の23年だったので、絶対に手を抜いたらやばいと思われていたと思います」

 2015年の金星があっても、世界の強豪国はフロックという意識をどこかで持っていた。19年大会は、例えてこずっても勝てるだろうという日本軽視の気持ちが、対戦相手の心の片隅のどこかにあったと堀江は感じていた。だが、23年大会へ向けては、各国の日本代表を警戒する度合いが大きく変わっていた。堀江は「本気で分析してきた」と語っているが、プール戦で日本が敗れたイングランド、アルゼンチンは共に徹底して日本を分析して、その強み、弱みを知り尽くした上で挑んできた。世界ベスト8クラスのチームが、ようやく日本と“本気”で戦う時代を迎えていると考えていいだろう。

「だから23年大会で、僕は逆にサモアに勝てたのが、ちょっと『おぉ』と感じたんです。やっぱ自力付いてんねんやと。結構しっかり見られているなという感じの中で、普通にサモアに勝ったのが印象的でしたね。それと、プール戦敗退やったけど、自分たちのラグビーを表現したからこそ、結果が出なくても日本に帰ってきた時にすごくウェルカム感というか、『頑張った』と受け止めてもらえたことが一つの救いかなと思います」

 堀江の引退と同じタイミングで、日本代表はエディー・ジョーンズHCが復帰して新たな体制で2027年のW杯への挑戦をスタートした。堀江自身も15年まで薫陶を受けてきた指揮官の帰還への期待感は大きい。

■「ラグビーが野球に並ぶくらい有名になって欲しい」

「多分、僕らがやってきたのとは全く違うラグビーをすると思うんですよね。超速ラグビーですよね。これを、どれだけチームが見せられるかだと思うんです。ファーストシーズンは結構時間もない中でイングランドら強豪との試合ですから、どういうふうに大きな枠を作って、こういうラグビーするんだぞというのを見せられるかが大事ですよね。そういう1年になると思うし、そこが見たいですね。見せることが出来たら、今後どんどん成長していくやろうなと思います。僕らがやって来た2015年と同じような、19、23と同じラグビーしてたら、多分先は見えないと思うんです。だから、そこに関してはエディーさんに替わって良かったのかなと思いますね。選手目線からしたら“味”が大きく変わるので、モチベーションも全然違うと思います。これって各チームも同じで、パナソニックももうちょっと味変せなアカンやろなと、僕はホンマ数年前から思っていたんです」

 堀江の言葉の中に、プロスポーツとしてのラグビーで、最先端で戦ってきた選手として感じた現実が浮かび上がる。トップクラスの戦いでは、チームも選手も日々バージョンアップしていかなければ勝てない時代を迎えている。進化が無ければ上位チームに追いつけないし、どんどん追い抜かれていく。23年大会をみても、日本が19年に辿り着いた「8強」というポストを失い、代わってフィジーがその座を実力で掴んでいる。今年7月の代表戦でも、退場処分などの不運もあったが、日本はランキング下位のジョージアに敗れて順位も逆転している。昨日までの自分やチームを脱皮して、今日はどこまで進化できるかというレースが加速する中で、堀江は、どこまで選手をその気にさせるかも重要だと指摘する。

「そうなんですよ。いろいろ変えていかないと勝っていけないですし、やっぱり選手のモチベーションがね、結構キーだと僕は考えているんです。選手をやりたいと思わすような練習だったり、これやったらいけるというような戦術戦略を用意してあげた方がいい。それが出来るスタッフがおったほうが、絶対いいと思いますね」

 堀江の思いの中には、いまの若い選手たちの能力が間違いなく進化しているという肌感覚もある。

「選手たちは、みんなもうアスリートなんですよ。アスリートだから、普通に教えて普通にやれば大抵のことは出来るし、普通に言ってくれれば、怒らんでも出来るんですよ。だからもう多分、重要性も分かっているだろうし、後はどれだけ言われたことに対してそのまま丸々じゃなくて、どこかでちょっとこの戦略だったら、こうやったら上手くいくだろうなとか、これやったら俺の色がつけられるだろうなとかいうことを、どんどんプラスしていけば絶対チームは良くなると思う。選手も、エディーさんとしっかり話をして、色々と揉んでいくといいですよね。もちろん代表というのはコンバインドチームなんで、言われたことやるのが大事だという考え方もありますけど、そこからどう自分の色を出していくかという肉付けをしていくことで、チームの味付けがどんどん良くなると思います」

 現在リーグや代表で活躍する選手たちが、自分たちの世代以上に進化している現実を認めながら、彼らが指揮官としっかりとコミュニケーションを取り、自分たちの考え方もぶつけて、寄せ集めながら代表チームの個性を作り上げていく。こんな日々の取り組みが、15年のブライトンの奇跡を呼び起こし、19年の躍進を後押ししたのだ。

 最後に、日本ラグビーの「これから」への期待と、自らの思い浮かべるアイデアを聞いてみた。

「競技としての進化はもちろんですが、ラグビーが野球に並ぶくらい有名になって欲しいですよね。そのために、日本独自のリーグとかをやってもいいかなと思います。例えば1年中ラグビーが出来るような環境があってもいい。リーグワンはいまシーズン終わって休止している状況じゃないですか。でも、こういう期間にちょっとリーグ(13人制)ラグビーをやらせるとかね。それが終わったら次は15人制で、というような。適当にお遊びとしてじゃなくて、しっかりお金も取ってやればいい」

 実際に埼玉WKはプレシーズンやシーズン中でも、強化の一環として11人制ラグビーを導入しているが、従来はウインタースポーツとされていたラグビーを、7人制など異なるコンテンツを1年中ファンに提示して、より親しみを持ってほしいという思いがある。同時に、国内リーグだけに捉われないチームの挑戦にも目を向けている。

「例えば国内チームが海外に出ていくことがあっても面白いかなと思います。単体でアメリカやヨーロッパのリーグに参加することもあってもいいかなという。何年後かには、リーグワンに戻ったりとか、そんなことが可能なら面白いと思います。今は企業スポーツに毛が生えたぐらいで、まあ始まりという状態なので、もっとプロっぽく、もっとエンターテインメントがあるように出来ればいいですね」

 プロとして選手もチームもさらに成熟して、従来にない取り組みを期待する堀江だが、それを促すためには、リーグやラグビー協会も従来以上に柔軟性を持った運営や規約の下でチーム、選手、ファンと向き合うことが重要だろう。38歳まで日本と世界のラグビーの中で揉まれ、駆け抜けてきたラスボスは選手としての挑戦にはピリオドを打ったが、その類を見ない実体験に基づく経験、知見から日本ラグビーが学ぶものはまだまだありそうだ。(吉田 宏 / Hiroshi Yoshida)

吉田 宏
サンケイスポーツ紙で1995年からラグビー担当となり、担当記者1人の時代も含めて20年以上に渡り365日欠かさずラグビー情報を掲載し続けた。1996年アトランタ五輪でのサッカー日本代表のブラジル撃破と2015年ラグビーW杯の南アフリカ戦勝利という、歴史に残る番狂わせ2試合を現場記者として取材。2019年4月から、フリーランスのラグビーライターとして取材を続けている。長い担当記者として培った人脈や情報網を生かし、向井昭吾、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズら歴代の日本代表指導者人事などをスクープ。ラグビーW杯は1999、2003、07、11、15、19、23年と7大会連続で取材。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください