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“14歳の金メダリスト”の意外な今 騒動で一度は水泳が嫌いに…夏に起こる水難事故「着衣泳を知れば」――競泳・岩崎恭子

THE ANSWER / 2024年8月24日 11時42分

46歳になった岩崎恭子さんは今、意外な活動に力を注いでいる【写真:中戸川知世】

■「シン・オリンピックのミカタ」#107 連載「あのオリンピック選手は今」

 スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪に合わせて「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、4年に一度のスポーツの祭典だから五輪を観る人も、もっと楽しみ、もっと学べる“新たな見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値の理解が世の中に広がり、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。

 五輪はこれまで数々の名場面を生んできた。日本人の記憶に今も深く刻まれるメダル獲得の瞬間や名言の主人公となったアスリートたちは、その後どのようなキャリアを歩んできたのか。連載「あのオリンピック選手は今」第9回は、1992年バルセロナ五輪競泳女子200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した岩崎恭子さん。当時14歳で日本史上最年少の金メダリストとなり「今まで生きてきた中で、一番幸せです」の名言を残した。あれから8大会32年、46歳になった「恭子ちゃん」は今、新たな活動に力を注いでいる。(取材・文=荻島 弘一)

 ◇ ◇ ◇

 岩崎さんの「今まで生きてきた中で……」は、今も多くの人の記憶に残る。女子マラソン有森裕子の「自分で自分を褒めたい」や北島康介の「チョー気持ちいい」と並ぶ日本の五輪史に残る名言。14歳は、言葉とともに国民的ヒロインになった。

「正直、ありがたいですよね。今も、こうして覚えてもらっている。何人もいるメダリストの中で印象に残るのはうれしい。今振り返れば、あの言葉も『よく言ったな』っていう感じですね」

 周囲の騒ぎに苦しめられ、水泳をやめたいと思うこともあったが。そこから立ち直って96年アトランタ五輪に出場。98年、20歳で選手を引退した後は、メディアの仕事や指導。普及など水泳にかかわる仕事をしてきた。日本オリンピック委員会(JOC)の在外研修員として、米国にコーチ留学もした。しかし、どれも明確な目標があっての行動ではなかった。

「自然の流れの中でやっていただけ。(水泳)連盟に頼まれたり、いろいろなところからお話をいただいたり。目の前の仕事を一生懸命やるだけ。明確に『これを』というのはなかったですね。根本的には水泳界のためだけど、将来について明確には考えていなかったですね」

 2010年にはユースオリンピックに臨む日本代表チームのコーチも任された。バルセロナ五輪の時に「中2トリオ」と呼ばれた稲田法子さんと一緒に、日の丸をつけて中高生の指導にあたった。

「たまたま国内での大会が重なる水泳にとっては忙しい時期。スイミングクラブのコーチは無理、学校の先生は無理で、競泳委員の中では私たちしかいないよね、とか話していたんです」

 これからの日本水泳界を背負う若手選手を岩崎さんらが率いる。14歳で金メダルを獲得した貴重な経験を伝える役目もあったはず。もっとも、本人はあくまで自然体だった。

「私たちがコーチになったことには意味があると思うけれど、特に何かを話すことはなかった。ただ、海外に出た経験のない子たちに、自分の経験は教えたりした。バスは時間通りに来ないのは普通だから、少し前に行って待っていた方がいい、とか(笑)」

 その後も幅広く仕事をこなしてきた岩崎さんが、近年取り組んでいるのは「着衣泳」。水難・水害事故にあった時に衣服を着た状態でいかに対処するか。その指導、普及に努めているという。


当時14歳でバルセロナ五輪金メダルを獲得した岩崎恭子さん【写真:産経新聞社】

■着衣泳の普及は競泳の強化にもつながる「オランダが恒例です」

「知ったのは現役時代。テレビ番組で五輪選手が洋服を着た時にどうなるか、波が出るプールでやったんです。それで初めて知りました」

 岩崎さん自身は子どもの頃から海や川には入っていて、波にもまれる経験もあった。ただ、今の子どもたちはプールしか知らない。すでに学校やスイミングスクールのプログラムに「着衣泳」はあったが、もっと繰り返し伝えていかなければならない。日大卒業時には、将来的な目標として普及が頭にあったという。

「東日本大震災の時に着衣泳が注目されたんですけど、私が長女を生んだばかりで活動できなかった。その後もイベントなどでやらせてもらっていたんですが、昨年プロジェクトが立ち上がって、今は少しずつ大きくなっています」

 着衣泳というと泳ぎをイメージするが、岩崎さんによれば「泳いではだめ。浮くんです」。基本的に泳力は必要だし、泳力があれば助かる確率は上がる。ただ、泳げればいいというものではない。何かあった場合に助かるには泳力とともに知識は必須。岩崎さんはそう強調する。

「ちょっと泳げる人が、一番危ない。日本は海に囲まれているのに、海や自然のことを知らない人が多い。泳いじゃいけない。助けが来るまで浮く。そういうことを知ってほしいですね」

 子どもから大人まで、着衣泳を伝えているから、岩崎さんの言葉は的確で、分かりやすい。水難事故にあった時どうするか、具体的に助かる方法を聞いてみた。

「本当はライフジャケットをつけているのが一番いい。ない時はペットボトル。500ミリリットルのものでも、子どもなら浮く。あとは体力を温存すること。それから、大事なのは海などに入る時に自分の体調を考えることです。天気を確認し、靴とかサングラスとか装備をしっかりする。そういうことを考えてほしいですね」

 着衣泳を指導し、普及させるために、岩崎さん自身も学んだ。世界中が取り組んでいる着衣泳。オランダがいい手本になるという。

「オランダは30年前から着衣泳と泳力の強化を一緒にやっています。もともと海抜0(メートル)の国で。水難事故も多かったといいます。そこで、着衣泳にも取り組んだ。小さい子は、プールに入るのに免許証が必要なのです。子どものころから意識が違うんですよ」

 スポーツは国際競技力ばかりが注目される。五輪イヤーともなれば、なおさらだ。ただ、岩崎さんは着衣泳を広めることは競技力の向上にもつながると考えている。

「オランダは最近、競泳も強くなってきた。着衣泳の普及が競泳の強化にもつながる好例です。多くの子どもたちが着衣泳を知れば、水に入ることが楽しくなって競技をやる子も増える。子どもの競技人口が増えれば、その中から優秀な選手も出てくるかもしれない」

 だからこそ、競技だけに目をやるのではなく、着衣泳を含む水泳の普及が大切になる。命を守ることの大切さ、水と仲良く付き合うことの楽しさを伝えることも、水泳人としての使命だという。

「日本には古式泳法というのがあります。中には、浮くことに特化したものもあります。みんな『泳ぎを教えてほしい』と言ってくるけれど、泳ぎって、まず浮くことなんです。『大の字になって、上を見て浮いて』というと長い時間は浮けない。5分くらい浮ければ選手になれるけれど。なかなかいない。こういうことを、広めていきたいです」


一度は水泳が嫌いになったが、今はしっかりと向き合い活動を続ける【写真:中戸川知世】

■金メダル騒動で一度は嫌いになっても…水泳と向き合い、活動を続ける今

 あの「名言」以来、発信力を持ち続ける岩崎さんだからこそ、できることがある。それは本人も意識している。今は積極的に学校などで講演をしたり、イベントなどで体験会をしたりと活動を続ける。

「私がやれば取り上げてもらえることも多い。PRは大事です。理解してくれる人がいたら選手たちにも活動をしてほしい。実際に、金藤(理恵)さんや(柴田)亜衣さんなんかも応援してくれています。依頼があれば、行って伝えたいですね」

 今後も着衣泳の指導や普及を通じて水泳にかかわっていきたいという岩崎さん。14歳で金メダルを獲得した後の長い人生。あの騒動の直後は水泳が嫌いになったというが、今はしっかりと水泳に向き合い、活動を続けている。やはり、水泳が好きだし、離れられないのだろう。

「少し日本の競技陣は元気ないですね。強化はもちろん大事です。でも、そのための普及がないと選手も出てこない。もっといろいろなことを発信して、?しないといけないと思うんです。普及と強化、どちらも大切ですから」

 日本水泳界へ愛をこめて言った。と、実は岩崎さん、水泳のほかに今はまっているものがあるという。多忙でなかなか練習はできないというものの、月に2回はコースに出るゴルフだ。

「実はJGA(日本ゴルフ協会)の理事をしているんです。水泳関係者に頼まれたんですけど(笑)。ゴルフは自然の中でやるのが楽しい。一人で練習できるし、いいも悪いも自分の問題。ちょっと水泳にも似ていると思っているんです」

 金メダリストとして生きてきた32年間、今もまだ水泳に関わって精力的に活動している。海に囲まれた日本人が海に親しみ、水と仲良くできるように、岩崎さんの挑戦は続いていく。

■岩崎 恭子 / Kyoko Iwasaki

1978年7月21日生まれ、静岡県出身。沼津市立第五中時代の92年バルセロナ五輪に出場し、女子200メートル平泳ぎ決勝で2分26秒65の日本新記録となる五輪新記録(ともに当時)で優勝。14歳6日で日本選手史上最年少の金メダリスト(当時)となった。レース後のインタビューで「今まで生きてた中で、一番幸せです」と答えたのが話題になり、一躍国民的なヒロインとなった。その後低迷したものの、96年アトランタ大会で2大会連続五輪出場。98年に引退しメディアなどで活躍した後、2002年から米国にコーチ留学。10年にシンガポールで行われたユースオリンピックでは、日本代表のコーチも務めた。(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

荻島 弘一
1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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