1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

パリ五輪まで「貯金を崩して生活」 夢を叶えた日本人女性レフェリー、憧れの舞台を目指し決めた覚悟

THE ANSWER / 2024年10月18日 17時33分

パリ五輪に審判員として参加した3人。左からホッケーの山田恵美さん、バレーボールの明井寿枝さん、ラグビーの桑井亜乃さん【写真:近藤俊哉】

■パリ五輪出場「女性レフェリー座談会」前編

 今夏フランス・パリで開催された五輪は、世界のトップアスリートが集結する4年に一度の大舞台だ。各競技に日々全力で取り組む選手にとっては、今も昔も目標であり憧れの場所となっているが、そんな世界最高峰の大会に日本から試合を支える裏方として参加した3人の女性審判員がいた。国際審判員として実績を積み上げてきたバレーボールの明井寿枝さん、ホッケーの山田恵美さんは、ともに2021年東京五輪に続く2度目の参加。7人制ラグビー女子日本代表として16年リオデジャネイロ五輪に出場した桑井亜乃さんは、引退からわずか3年で選手・レフェリーとして五輪の舞台に立つというラグビー史上初の快挙を達成した。

 審判員としてパリ五輪の試合を裁いた裏には、どのような想いや歩んできた道のりがあったのか。競技の垣根を越えて実現した、3人の女性審判員による座談会。前編では審判員のキャリアを歩み始めた経緯や、五輪で笛を吹く意義について語り合った。(取材・構成=長島 恭子、取材協力=一般社団法人日本トップリーグ連携機構)

 ◇ ◇ ◇

――まずは審判員として参加したパリ五輪の振り返りをお願いします。バレーボールの明井さん、ホッケーの山田さんは東京大会に続く2回目の参加でした。

明井寿枝さん(以下、明井)「東京大会は残念ながら無観客開催でしたが、今大会は五輪らしさを多々感じられる非常に充実した3週間でした。最も実感したのは、やはりオリンピックは他の世界大会と異なる、という点です。選手やチームの勝負に対する執念の強さは、他の大会とは違うと肌で感じました」

山田恵美さん(以下、山田)「今大会はパリの街全体が大会テーマカラーのピンクや青のサインに溢れ、街中が五輪を喜んで迎えている雰囲気でしたね。東京大会ではスポーツに関わる者として、複雑な気持ちと寂しい想いがあり、私はその経験により『次のパリも目指そう』と思いましたが、やはりスポーツはこうあって欲しいと思いましたし、参加できたことがとても嬉しかったです。

 審判員としてですが、初参加の東京大会では、緊張や迷いがあるなかで笛を吹いていました。一方、2度目となる今大会では、自分が目指してきた審判員の姿を発揮できればいい、という気持ちで臨めた。そこが一番大きな違いです」

明井「私も同じです。東京大会では1日1日が精一杯過ぎて、実はあまり覚えていないんです。経験も浅かったですし、正直、何もできなかった。振り返ってみると、選手たちは私の判定に納得していなかっただろうと思いますし、自分のなかで上手く試合をコントロールできなかったと感じています。

 でも今大会は、常に平常心で試合に臨めました。もちろん、反省点もありますが、この3年間、様々な世界大会で経験を積んできたことの表れだと思います」

山田「ホッケーの国際審判員は47歳の年の12月で定年なんですね。ですから、44歳の私は(2028年)ロス大会には参加できないと分かっていました。審判員として次に繋がる経験や課題もたくさん得られましたが、何よりもやり残すことなくやり切った大会でしたね」

――桑井さんはラグビーの女子セブンズ日本代表として、2016年のリオデジャネイロ大会に出場しています。そして今回のパリ大会には、レフェリーとして初の参加となりました。

桑井亜乃さん(以下、桑井)「はい、私も2度目の五輪になりますが、レフェリーとしては試合までの過程や行動など、初めて経験することばかり。何試合吹かせてもらえるのかも分からないまま大会に入るなど、不安もありました。

 しかも、リオ大会はそれほど観客数も多くなかったのですが、今大会、初めて笛を吹いた試合の観客数は6万6000人。選手時代の初戦の時と同様、ポワポワと体が浮くような感じの緊張感があり、すごく懐かしくも感じました」


桑井さんはラグビー界で初めて選手、審判の両方で五輪に出場した【写真:(C)2024 Mike Lee for JRFU】

■判定でミスをしたら「すぐに『ごめん』と声をかけています」

明井「選手と審判、両方の立場で五輪に出場した審判はラグビー界では世界初、ですよね。選ばれた時、どんな気持ちでしたか?」

桑井「はい、世界初という目標を持って始めましたし、すべてをかけて取り組んでいたので、マッチオフィシャル(審判団)に選出された時は号泣するほど嬉しかったです。

 初戦を迎え、マイクを身に着けて『よし』と気持ちを入れてロッカールームから出ると、『おめでとう!』と声をかけられたんです。その瞬間、鳥肌が立ち、感極まってしまいました。『ありがとうございます』と言いながら、泣きそうになったというか、しびれるような感覚があり、なんとも言えない気持ちでした」

山田「私もリオ大会に選手として出場しただけでなく、東京大会出場も目指していた方が、審判員としてパリ大会に参加すると聞いた時は鳥肌が立ちましたよ。審判員として初めてのオリンピックを祝っての『おめでとう』の言葉ですよね?」

桑井「はい、その日までの3年間のすべてがフラッシュバックしてきて、『絶対頑張んなきゃ、やんなきゃ』というスイッチが入りました」

明井「選手としても五輪に出場した経験は、審判員を続けるうえですごく大きいと思います。我々にはないので、単純に『いいな、カッコいいな!』と思います。

 バレーボール界ですが、例えばアジアですと韓国や中国には元オリンピック代表選手の審判員がいますが、残念ながら日本国内にはまだいないんです」

山田「ラグビー界を羨ましく思います。ホッケー界も代表クラスの選手が審判になることは世界的にも少ないので」

桑井「私と同時期に男性の代表クラスの選手も協会から提案されて、レフェリーにチャレンジしたんです。ラグビー界は今、トップクラスの選手だった方がレフェリーに転向する流れが世界的にあるので、その影響はあると思います。

 それと今回、私が3年でオリンピックの舞台に立てたのも、競技実績が大きかったと思います。もし、選出に至る道のりのどこかでミスをしたら、パリ大会はもちろん、次にオリンピックに選出されるチャンスもしばらく巡ってこなかったと思います。

 あと、お2人の話を伺い、やっぱり2回目はもっと余裕を持ってレフェリーの仕事にフォーカスできるのか、経験って大事だなと教えてもらった気がします」

明井「そうですね。私は今大会、選手とのコミュニケーションの重要性を改めて感じました。例えば試合中に、選手と目を合わせて『ありがとう』という気持ちを伝えると、選手も手を挙げて応えてくれる、という場面がありました。

 でも、東京大会ではこういったことは一切できなかった。『負けないようにしよう』という気持ちが強くなり、選手に対して反発心というか、ケンカ腰みたいな対応をしていましたね。もちろん、威厳を持って試合に臨むことは大切ですが、完全に気合いが空回りしていたと思います。やはり審判は経験職。経験を積むほどいい仕事に繋がっていくのだなと実感しました」

桑井「私はたぶん、まだ対抗心がありまして、判定にクレームを言われたら『言わないで』みたいな顔をしてしまいます(笑)。高校生男子ぐらいだと『レフェリー、邪魔!』などと、怖いもの知らずな感じで言ってくるんです。最近は言われなくなりましたが、以前は『それ言う必要ある?』などと強く返していましたね(笑)。

 ただ私自身、選手時代はレフェリーに対し、つい激しい言葉をぶつけてしまった経験もあり、どっちの気持ちも分かってしまう。ですから、ミスをしたらすぐ選手に『ごめん!』と声をかけていますね」

山田「正しく、厳しく吹く審判もいれば、コミュニケーションをとりながら進める審判もいる。長く審判員をやってきてすごく思うのは、自分の色が大事だということです。

 私は選手によく声をかけるのですが、そのほうが試合のコントロールも上手くいくタイプです。一生懸命にやっていても、ミスをすることは絶対にあります。でも、選手とコミュニケーションが取れて、心が通う部分があると、選手も食ってかからず、仕方ないねと収めてくれる。それも含めて、自分の色かなと感じています」


東京五輪出場を目指すと決めた山田さんは転職も経験した【写真:近藤俊哉】

■1つの大会に選出されると「必ず2週間は拘束される」

――桑井さんは明確に五輪を目標に掲げ、審判員の道を歩み始めました。明井さん、山田さんは五輪で笛を吹くことを意識したことはありましたか?

明井「駆け出しの頃、身近にオリンピックレフェリーがいたので、自分もその舞台に立てたらいいなとは思っていました。ただ、本当の意味で目指そうと考えたのは、東京開催が決まった時です。私も学生時代はバレーボールの競技者でしたが、選手としては出場できるレベルではなかった。でも審判員として参加できる可能性があるならば挑戦したい、と思い始めました」

山田「私も一緒で、東京開催が決まるまでの約20年間は、五輪を目指そうとは考えたこともなかったです。私の直の先輩に相馬知恵子さんという方がいらして、アテネ大会からリオ大会まで4大会連続で五輪の審判員に選出されていたんですね。目指すと決めたら最後、相馬さんに続く覚悟を持って取り組まなくてはいけない。その高いハードルを越える覚悟を持てなくて、『五輪を目指す』なんて言えませんでした。

 東京開催が決定した当時、五輪で指名される条件を満たす実績を積み上げるには、間に合うか否かギリギリのタイミングでした。正直、すごく難しいとは思いましたが、選ばれなくても目指してみようと覚悟が決まった。それで、転職もしました」

明井「転職をされたんですね」

山田「はい、東京大会が決定したのが2013年。それから約6年で、オリンピック審判員に選出されるにはどうすればいいのか。それを最優先に考え、シフトチェンジしました」

明井「一般的な仕事ですと、やはり試合や大会のたびに休みを取ることが難しい。でも、大会のために仕事を休まないと、実績を積むことができない。おそらくどの競技においても、五輪を目指すうえで高いハードルです。

 バレーボールもシーズン中は毎週末、試合になりますし、国際審判員として世界を目指すのであれば、まずアジアの大会で実績を積まないと、国際大会の審判員にノミネーションされません」


北海道の石狩翔陽高で教壇に立つ明井さん。仕事と両立する難しさを語った【写真:近藤俊哉】

山田「そうですよね、1つの大会に選出されると、必ず2週間は拘束されますから。その間、休んでも続けられる仕事を探すのは本当に難しい。

 国内・国際大会で良い評価がもらえないと、五輪のアポイントは得られません。特にホッケーはヨーロッパが強く、審判員を評価するアンパイアマネージャー(審判員の指導、評価を行う国際ホッケー連盟の仕事)もヨーロッパに多い。大会で笛を吹かないことには次の大会のアポイントメントにも繋がらないため、アジアの審判員はどうしても地理的なビハインドがあり、見てもらう機会も限られます」

桑井「ラグビーも同じです。強豪国の多いヨーロッパやオセアニア地域と比べると、見てもらう機会は少ないです。私は現役時代、デパートに勤務していましたが、練習のため午前勤務のみなど、融通をきかせていただきながら働いていました。でもレフェリーに転身後、退職しました。やはり、やるからには『仕事があるから遠征や大会に行けません』と言うのだけは嫌だったので、フリーという立場で続けました。

 退職させていただいたデパートや現役からサポートしてくださっていた企業さんもいましたが、それだけでは生活を成り立たせるまでは難しかったです。貯金を崩したりしながら生活をしても良いと思っていましたし、パリ大会まではラグビーにすべてを捧げたい想いで、レフェリーの活動に集中しました。その気持ちが伝わりラグビーの解説やイベント、新たなスポンサーなど応援してくださる方が増えました」

明井「バレーボールは代々、五輪で日本人審判員が必ず笛を吹いてきたんですね。ところが、リオ大会では1人も選出されず、代々引き継がれた伝統が途切れてしまったことがありました。

 当時、我々審判員は皆、その責任を重く受け止めました。でも逆に、当時受けたショックは五輪を目指すモチベーションにもなった。目標をしっかり見据えて頑張ろうという、強い想いに繋がったと感じています」

(後編へ続く)

■明井寿枝(みょうい・すみえ)

 1973年1月17日生まれ、北海道出身。中学時代、バレーボール漫画『アタックNo.1』に影響されて入部。日本女子体育大2年時に選手としての限界を感じ、マネジャーに。大学の練習試合で初めて笛を吹く。97年から北海道で高校保健体育教諭となり、現在、石狩翔陽高で教壇に立ちバレーボール顧問を務める。2007年に国際審判員資格取得。18、22年の女子世界選手権、19年W杯、19、21、23年ネーションズリーグなどで審判員を歴任。五輪は21年東京大会、24年パリ大会に参加。パリ大会では6試合で主審を務めた。

■山田恵美(やまだ・えみ)

 1980年1月8日生まれ、長野県出身。小学生の時に兄の影響でホッケーを始める。山梨学院大3年時に国内B級審判員の資格を取得。2004年に国際審判員になる。4度の五輪(04年アテネ大会~16年リオデジャネイロ大会)で審判を務めた相馬千恵子氏の指導を受け、18年ロンドンW杯後、国際審判員の最高ランク『オリンピックパネル』に昇格。五輪は21年東京大会、24年パリ大会に参加し、パリ大会では4試合で主審を務めた。23年にはフル代表による国際試合を100試合経験した審判に国際ホッケー連盟から送られる、ゴールデンホイッスルを受賞(日本人として3人目)。

■桑井亜乃(くわい・あの)

 1989年10月20日生まれ、北海道出身。小学生から陸上を始め、帯広農業高2年時に円盤投げで国体5位入賞。中京大学まで陸上部に所属するが、大学卒業後の2012年にラグビーに転向。13年に7人制ラグビー女子日本代表として初キャップを刻むと、16年リオデジャネイロ五輪に出場し日本初のトライを決めた。21年8月に現役を引退し、レフェリーに転身。24年パリ五輪のマッチオフィシャル(審判団)23人の中に選出され、ラグビー界で初めて選手そして審判として五輪のピッチに立った。パリ大会では2試合を担当。7人制ラグビーの代表キャップ「31」。

※独立行政法人日本スポーツ振興センター競技強化支援事業(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

長島 恭子
編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビュー記事、健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌で編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(中野ジェームズ修一著)など。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください