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99歳までボクシング界を支えた帝拳・長野ハルさん死去 64歳下の記者にも刺さる厳しさ、愛、畏敬の念

THE ANSWER / 2025年1月6日 9時37分

2017年5月、世界初挑戦で敗れた村田諒太(左)を労う長野ハル・マネージャー【写真:産経新聞社】

■悼む

 日本ボクシング界の名門・帝拳ジムの長野ハル・マネジャーが1日午後8時40分、老衰のため死去した。5日、本田明彦会長がホームページで発表。99歳だった。1948年に帝拳株式会社に入社し、日本ボクシングコミッション(JBC)が創設された1952年にマネジャーライセンスを取得。多くの世界王者を輩出したジムだけでなく、75年以上にわたって業界を陰で支えてきた。

 昨夏頃に足を骨折するまでは試合や記者会見にも足を運び、マネージャー業に勤しんでいたボクシング界の母親的存在。選手、トレーナーはもちろん、記者にも厳しい姿勢を崩さなかった奥には大きな愛があった。

 ◇ ◇ ◇

 一度見た顔は忘れない。90歳を超えても、それくらいしっかりした方だった。

 記者がボクシング担当になったのは2018年1月。長野さんはすでに92歳だった。最初は挨拶をしても視線すら合わせてもらえず、微動だにしない時も。昭和の空気はゆとり世代の記者には重すぎた。新顔に厳しいのは、選手を守るためだろう。信頼できる人間なのか、常に試されていた。

 他の競技と比べ、選手と記者の距離が近いボクシング。だが、長野さんの許可なしに取材するのはもってのほか。選手のほうから話しかけられても、「練習中の選手に話しかけないでください」とこちらが注意された。

 たとえ取材のための調べものであっても、ジム内で容易にスマホなんていじれない。見られていないと思って開いたつもりが、大鏡越しにじっと視線を向けられていた。全てを見透かされている。心拍数が跳ね上がった。

 毎月、無言で手渡されたのがボクシング専門誌。勉強しなさい、ということだったのだろう。神楽坂のビル5階にあるジムへのエレベーターでは、身なりと呼吸を整えるのが日常。「この記事はどうしてこの書き方を?」。甘さは逐一指摘された。記者が生まれた時はすでに64歳で還暦を超えており、文字通り赤子の手をひねるよう。先輩記者には「長野さんが夢に出てからが一人前」と教えられた。

 数年が経ったある日の挨拶。わずかな会釈が返ってきた。少しだけ認めてもらえた気がした。「あの子はこの間、こんなことがあったのよ」。他社の記者が知らない選手の情報を、その一端だけ教えてくれる。チャンスをもらい、取材して回った。

■帝拳ジムで世界王者になった村田諒太氏「感謝と重圧の人」

 2018年4月、当時世界王者だった比嘉大吾が体重超過を犯した。混乱でごった返す計量会場。対応に追われる比嘉の所属ジムの女性マネージャーが筆者の前で右往左往していた。ゆっくりと歩み寄ったのが長野さん。両手で肩を抱き寄せ、そっとつぶやいたのが聞こえた。

「長いことやっていれば、いろんなことがあるからね」

 戦後からボクシング界の隆盛のど真ん中を生きてこられた。これ以上ない説得力。相手は目を閉じ、力をもらっていた。

 ボクシング経験はないが「もうちょっとこうやって打つのよ」と言いながら、選手にパンチを見せる。年齢を聞いた海外選手や陣営が、そろって仰天するのは恒例だった。ジムにいれば空気が変わる。帝拳でミドル級の世界王者になった村田諒太氏は、2023年3月の引退会見で恩人である本田明彦会長と長野さんのことを「感謝と重圧の人」と表現した。

 厳しさはボクシング愛が深いゆえ。チケットの手配、興行パンフレットのチェック、取材の管理、ジムの電話対応。近年もマネージャー業を続ける背中には深い、深い畏敬の念しかない。

 多大な功績ほどは、あまり世間に知られていない名前。自身に関する取材や表彰は断り続けたと聞く。葬儀は近親者のみの家族葬。弔問、香典、供花も辞退された。全て故人の遺志。最期まで裏方に徹されたのだろう。

 厳しさと愛に記者としても育てていただいた。心よりお悔やみ申し上げます。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)

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