井上尚弥が小さく握った右拳、泣いた代役挑戦者 敬意で繋がった2人が互いに背負ったもの
THE ANSWER / 2025年1月26日 6時53分
■異例調整を強いられた井上尚弥が告白「弱音を吐いたら負け。絶対に吐かない」
ボクシングの世界スーパーバンタム級4団体統一王者・井上尚弥(大橋)が25日、3度目の4団体防衛成功から一夜明け、神奈川・横浜市内の所属ジムで会見した。前夜は東京・有明アリーナでWBO11位キム・イェジュン(韓国)に4回2分25秒KO勝ち。1か月延期と対戦相手変更が続いた異例の興行を終えた。大きな実力差がありながら、戦前の予想以上に熱を生んだ一戦。互いに背負うものがあり、勝利を目指したからこそスポーツの魅力が生まれた試合だった。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)
◇ ◇ ◇
小さく揺れた拳に心労が詰まっていた。
衝撃の4回KO。大歓声の中心で、井上は右拳を胸の高さで握った。直後に左も小刻みに揺らす。喜びと安堵が入り混じった控えめのガッツポーズ。延期、相手変更とよもやの流れに、試合直前まで空席を覚悟していた。
「肉体的ではなく、精神的に正直きつかった」
昨年9月に戦ったTJ・ドヘニーは消極的な戦い方。ボディーを浴びてノロノロと膝をつき、あっさりとTKOが決まった。「やっていてつまらない」。井上は表情を崩さず、拳を掲げることもなかった。
過去にもガッツポーズが出なかった試合がある。当日までの背景、相手の姿勢、リング上での心の燃え方にも差があるのだろう。今回は明らかに格下とされた代役を当たり前のように倒しても、自然と飛び出した。
喜びを膨らませたのは初体験の調整期間。12月は試合10日前に1か月の延期は決まり、終盤に入っていた減量が仕切り直しに。大橋会長が「心も微動だにしない」と語る通り、貫いたのは試合に全力で集中すること。
「弱音を吐いたら負けじゃないですか。まずはプロとしてやるべきことをやり遂げるのが仕事。弱音は絶対に吐かない」
いつも試合1か月前から本格的な減量に入り、心と体を研ぎ澄ませていく。今回は2か月も気を張っていた。だから、勝利直後に疲労がのしかかった。「普段なら一夜明けた後にトレーニングをしたいという気持ちになるけど、今はしたくない。それくらい張り詰めていた。ドッと疲れが来ました」
ガッツポーズができた他の理由には、無事に1万5000人を沸かせたことにある。それは挑戦者のおかげでもあった。
拳をぶつけあった井上とキム【写真:中戸川知世】
■最後まで勝利を目指したキムの涙「僕は…」
キムは両親がおらず、19歳まで児童養護施設で生活。体が小さいことでいじめを受けた。パッキャオやメイウェザーに憧れ、20歳でプロボクシングの道へ。アマチュアで基礎を積んでいない選手は時間がかかる。長らく低迷する韓国ボクシング界では、暮らしが裕福とは言えない。それでも、地域タイトル獲得など地道に世界ランクを上げた。
32歳で転がり込んだ最強モンスターへの挑戦機会。試合2日前の会見で王者に直接呼びかけた。「楽に終わらせるつもりはない。イノウエも十分準備して、初回からベストの姿を見せてもらえれば」。武器はカウンター、前に出てきたところで仕留める算段。破格の報酬があればいい、そんな弱腰ではなかった。
「僕は勝つためにここに来た」
砕け散る最後の瞬間まで、本気でベルトを奪いに行った。序盤から返し続けた拳は、超速で動くモンスターをかすめた。4回に左フックを被弾。執念で体を起こし、右拳を下からクイッと動かす。「来い」。勝つにはカウンターしかない。揺さぶりをかけ、狙った。
これまで防御一辺倒で「塩試合」を演じた挑戦者がいた。井上を恐れ、ガードを固めざるを得ない選手も。彼らと比べれば、確かに実力で劣っていたかもしれない。体ごとふっ飛ばされたワンツーでKO負け。コーナーに頭からもたれかかり、涙する姿がこのチャンスに人生を懸けたことを示していた。
井上は常々言う。「相手あってこそ盛り上がるのがボクシング」。片方が冷めていれば熱戦は生まれない。「急遽代役で対戦を受けてくれたキム選手、ありがとうございました」。俯きながら花道を歩く敗者へ。リング上のインタビューを中断して拍手を送り、客席の日本人ファンも続いた。
一夜明け、興行台無しの危機を救われた井上陣営の大橋秀行会長は言った。
「彼のおかげで助かった。井上に初回からプレッシャーをかけられて、(カウンターを狙い続けるのは)凄いですよね。堂々と立ち向かってくれて、強気な姿勢で試合をしてくれて感謝しています」
そんな会見を終えると、キムが大橋ジムに現れた。「挨拶したいから来た」。左目の下には紫色のあざ。「目が痛い。強いよ。左ボディーも痛い」。笑いながら勝者に握手を求めた。
敬意で繋がった最強王者と代役挑戦者。井上は目に見えないものを言葉にした。
「ボクシングってそういうもの」(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)
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