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“遺す”と安易に選択できず…費用面や安全面から消えゆく『戦争遺構』愚かさを未来に伝え続けるためには

東海テレビ / 2024年8月24日 21時0分

ニュースONE

 戦禍の傷跡を残し、戦争の愚かさを伝え続けてきた『戦争遺構』が今、消えつつある。平和を約束した被爆地の広島でも、戦争遺構の取り壊しの議論が浮上した。安全面を優先した耐震化と、それに伴う多額の工事費用など“やむを得ない事情”が背景にあるという。戦後79年を経た、戦争遺構を巡る現状を取材した。

■戦争の記憶を伝える『戦争遺構』が消えつつある




 1945年8月7日、かつて“東洋一”の兵器工場と呼ばれた愛知県豊川市の「豊川海軍工廠(こうしょう)」は、アメリカ軍の空爆で、2500人以上が犠牲となる大規模な空襲被害を受けた。


ちょうど79年後となる2024年8月7日、子供たちが訪れ、施設内を見学した。


施設の中の壁には、GHQが戦後、持ち出したもののリストが書かれていた。「弾薬」「信管」の文字は残っているが、「火薬」は確認できない。終戦間近のころには、火薬庫でありながら火薬はなかったということだ。


刻まれたその“傷跡”で、戦争の記憶を伝える場所。防空壕や軍需工場跡地など『戦争遺構』と呼ばれるものだ。

参加した女の子:
「戦争を体感した人がだんだんいなくなっているけど、戦争の怖さを伝えてもらいたい」

父親:
「少しでも身近に感じるようなところは遺してわかるようにした方が、この先の子供たちが生きていく上には必要かなとは思います」

戦争遺跡保存全国ネットワークによると、不発弾などの「物」とあわせ『戦争遺跡』とくくられるその数は、全国で5万件ともいわれている。


愛知県美浜町にある海岸線には、滑走台が残っている。ここから、水上機のパイロット養成部隊「第2河和海軍航空隊」が飛び立っていた。


終戦間際の1944年に完成した3本の滑走台は、20メートルほど先まで伸びていて、当時のままの姿で戦争を伝える、「歴史の証人」だ。

美浜町文化財保護委員 山下泉さん(73):
「やっぱり歴史の証人ですから。残すことが大事だと思いますけどね。戦争遺構は、脚色一切なしに、もうそのものを語っていますから」


しかし、滑走台の西側にあった戦禍を逃れた弾薬庫や航空機の整備工場の土地は、国から企業に売却され、現在は太陽光パネルが並んでいる。

美浜町文化財保護委員 山下泉さん(73):
「元々ここは第二河和海軍航空隊の工場とか格納庫とかその他諸々の大きな建物があった場所です。時代の流れと言いますかね、やむを得ない部分もあるでしょうね」


終戦から79年が経ち、「戦争遺構」が、消えつつある。

■愛知だけで「25件」消滅…土地問題や保全費用等が課題に




 何が起きているのかを調べるために愛知県の文化財室に確認すると、県が2024年6月にかけて戦時中の傷痕が残った建物など各市町村に照会した結果、305件のうち25件が消滅していたという。

愛知県文化財室 辻光代室長:
「それぞれの所有者であったり、管理者がいらっしゃいますので、その方たちのご意向というものが大きい」


仮に『戦争遺構』とされた場合であっても、その場所が私有地であれば、「遺す」「遺さない」の判断は一般的に土地の所有者に委ねられる。戦禍を逃れた建物は老朽化も進み、保全には莫大な費用が掛かるため、安易に「遺す」選択ができないのも現実だ。

愛知県文化財室 辻光代室長:
「行政的に“必ず保存してください”ということは、検討してもできないところがあるので。愛知県が“ダメだ”というふうに止める権限はないのかなと」


消えゆく理由は、「費用」の面だけではない。

愛知県瀬戸市の雑木林を抜けると、土砂で埋まった穴がある。


ここは、愛知航空機の疎開工場「瀬戸地下軍需工場」の跡地だ。


しかし、入口には後から設けた鉄の柵があり、安全面から中を調べることも叶わなくなっていて、忘れ去られる運命が待っているように感じられる。

瀬戸地下軍需工場跡を保存する会:
「2005年に鹿児島で事故があったんですよ。陸軍の本土決戦用のトンネルで、中学生が遊んでいて窒息死した。たぶん、中で焚き火か何かをしていたと思う」


姿を消す遺構、記憶から消える遺構。終戦から79年という時間が、「遺すこと」の難しさを物語っていた。

■工事費100億円で一度は「解体方針」も…行政も“苦渋の決断”迫られる




 世界で初めて原爆が投下された広島は、戦争の愚かさと、平和を訴え続けてきた。

1914年、広島市南区に建設された「旧陸軍被服支廠」は、軍服や軍靴などの製造・貯蔵を担った市内最大級の被爆建物だ。


2024年8月9日、広島県から内部の取材を特別に許可された。内部を案内したのは、平和を訴える子供向けの本を執筆する作家・中澤晶子(なかざわ・しょうこ 71)さんだ。


ここではかつて、多くの被爆者が運ばれ、そして命を落とした。この場所も、議論の舞台となった『戦争遺構』だ。


広島県は2019年、老朽化による耐震工事費用100億円という試算などを理由に、「1棟を保存し、2棟を解体」する方針を表明した。

しかし、被ばく者や住民から保存を求める声が相次いだ。国の重要文化財指定(2024年1月)も後押しとなり、補助金など財源の調整も整い、一転して保存が決まった。「戦争の記憶」は、一度は伝承も危ぶまれた。


中澤晶子さん:
「(解体するのは)ちょっと違うんじゃないかなと思いましたね。戦争遺構を巡るということは、見えないものを見る、いろんな五感を働かせながら色んなことを考える、良い場所だと思う」

■「未来に遺し続けるため」の選択肢




 平和を約束した広島の街で、遺していくために“姿を変える”選択をしたのが、平和記念公園にある被爆建物「レストハウス」だ。


館内には、爆心地・旧中島地区の歴史と記憶を伝える展示が設けられている。


原爆に見舞われながらも生存者がいたという地下1階は、中がむき出しになった柱や剥がれた床が、当時のまま残されている。


その外観は、耐震補強を施した2020年のリニューアルを機に、未来に遺し続けるために手を加え、「原爆投下前」のたたずまいに一新された。

ただし、戦時中の姿から変え過ぎずに残すことが、「“遺構として”戦争の愚かさを強く訴え続ける」と中澤さんは話す。


中澤晶子さん:
「難しいところですよね。人は目の前に物がなくなったら、そこで何が起こったか忘れる。被爆者がいらっしゃらなくなっても、戦争遺構は残る。被爆者の代わりに語ってくれる存在だと思う。次に愚かなことをしないための、何か踏みとどまるきっかけになったらすごく良いなと」


終戦から79年。戦争遺構は、その姿のまま「伝承」を担い続けることはできるのだろうか。

2024年8月16日放送

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