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【桟原将司連載#24】ぎっくり腰がなければ「JFK」は「JSK」になっていた?

東スポWEB / 2024年6月18日 11時14分

阪神のJFKトリオ、左から藤川球児、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之

【桟原将司 ハナの剛腕道中(24)】1年目の2004年は振り返ってみれば自己最多となる44試合の登板。新人合同自主トレから故障してキャンプ、オープン戦も二軍という状況を考えればV字回復のルーキーイヤーでした。そこから僕にとっての2年目です。第1次岡田政権の2年目でもあり、リーグ優勝を経験することになるシーズンです。

もちろん、始まるまでは未来は読めないですからね。優勝しそうだなとか、僕のレベルでは全く分かっていませんでした。03年に優勝を経験している金本さん、矢野さんをはじめとする先輩たちは手応えを感じていたかもしれませんが、僕はまず自分のことで必死でした。

これは後から知った話なんですが、この機会にちょっと触れておきますね。岡田監督が05年に編み出した鉄壁のリリーフ陣「JFK」ってあるじゃないですか。05年からセットアッパーだった安藤優也さんが先発に転向して7、8、9回を投げる投手を確立すると構想した時です。

あの当時、最初に決まったのはジェフ・ウィリアムスだったそうなんです。03年の優勝も守護神として経験しているし、そりゃそうやなって感じじゃないですか。逆にクローザーだったのにセットアッパーという役割を受け入れたのがすごいと思う。

次に決まっていたのは久保田智之さん。球が速くて空振りを取れるピッチャーなんで適役ですよね。そこから最後の一人をどうしようとなって、それが藤川球児さんと僕だったらしいんです。

そんなところで名前を出してもらえたわけですから、かなり期待してもらっていたんでしょうけどね。でも、僕はそこでやらかすっていうオチなんですけどね…。

僕は当時、投手陣で最も年下。そういう事情もあってオープン戦には全試合、予備要員として帯同していたんです。どの試合かは明確に覚えていないのですが、オープン戦前日にシートバッティングに登板した翌日です。一応ベンチに入っているから出場メンバーと同じ試合前練習のメニューをこなしていたところ、ぎっくり腰になったんです。

でも、そんなこと言えなくて、ごまかして走っていたんですが…。その時に球児さんが「サジ、めっちゃ変な走り方してるよ」って指摘したんです。そうしたらトレーナーが飛んできて「サジ、動けるか」と練習ストップです。

中西投手コーチと話すということになって、宜野座のサブグラウンドの横にあったトレーニングルームで面談です。そこでトレーナーさんに状態を見てもらって、椅子に腰掛けました。

そうしたら座ったまま立てないんですよ。もうオープン戦の時期だし、沖縄キャンプも終盤です。そこから3日間、僕は球場にも行かずホテル待機。部屋でストレッチのみです。

当時の自分はつゆ知らずですが「JFK」の一角になっていたかもしれないのに。もしかしたら「JSK」。ジェフ、サジ、久保田…。チャンチャン。ありがとうございました。

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