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邪道・大仁田厚 83年「最初の引退」引き金は医師からの再起不能宣告だった!

東スポWEB / 2024年6月30日 10時14分

王座防衛に成功した大仁田厚だったが…(83年4月)

【昭和~平成スター列伝】“邪道”こと大仁田厚は8月24日に川崎市内で自身の「50周年記念大会」を予定している。実に7度も引退しながら、その都度復帰。現在も各団体にケンカを売りつける元気さは健在で、記念大会のカードが注目される。

大仁田は1974年4月14日、全日本プロレス後楽園大会の佐藤昭雄戦でデビュー。当時は渕正信、薗田一治と共に「若手三羽ガラス」と呼ばれ、王道のど真ん中を走っていた。

米国遠征中の1982年3月7日、ノースカロライナ州シャーロットでチャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を奪取。一気にスターダムにのし上がる。

ジュニアのスターとして大人気を集めるが、83年4月20日東京都体育館でヘクター・ゲレロとの防衛戦に勝利した後、リングを飛び降りた際に着地時に足を滑らせて左膝を床に強打。左膝蓋骨粉砕骨折の重傷を負ってしまう。勝つには勝ったがこれが最後の防衛戦となり、最初の引退の原因となってしまった。

「大仁田が一瞬の逆転劇で6度目の防衛に成功した。前半はヘクターのぺース。大仁田厚はカウンターのネックブリーカー、最上段から高角度のドロップキック。しかしとどめのジャンピングヘッドバットは自爆してしまう。今度はヘクターが最上段からフライングボディープレスに出るが、大仁田がヒザを立てるとボディーに突き刺さった。チャンスと見た大仁田は一気にジャーマンスープレックスで3カウント。何とか6度目の防衛に成功した。試合後、左ヒザを強打した大仁田は救急車で病院に運ばれた」(抜粋)

翌日には「左膝蓋骨粉砕骨折のため長期欠場」と発表され、医師からは再起不能を宣言される。翌年に復帰するも、全盛時の動きからはほど遠く、ジャイアント馬場の勧告により引退をかけて84年12月2日に新王者・マイティ井上に挑戦するも敗退して無念の引退となった。

85年1月3日には後楽園で引退式が行われ、大仁田は涙ながらに「15歳で入門、以来12年間…」と語ったきり声が出ないまま、馬場夫人の元子さんと涙の抱擁を交わした。場内からは「また戻ってこいよ」の声が飛んだが、本当に戻ってくるとは誰も思わなかった…。

数年間、芸能活動などを経て、89年10月6日露橋でFMW旗揚げ戦を敢行。ここからの快進撃は改めて触れるまでもないだろう。不慮の事故だったが、最初の引退がなければ電流爆破や数々のデスマッチの“発明”も生まれなかった。ある意味“歴史の必然”だったのかもしれない。ここまできた以上、邪道には60周年まで目指してほしい。 (敬称略)

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