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【菊地敏幸連載#6】高3夏は「巨人の1位は島野と星野の…」の名言を生んだ武相・島野修に敗戦

東スポWEB / 2024年7月18日 11時17分

ブレービーのぬいぐるみを脱ぐ島野修。武相のエースだった

【菊地敏幸 辣腕スカウトの虎眼力(6)】私が進学した法政二高野球部は1957年から61年まで5年連続で夏の県大会を制覇した名門です。57年夏には甲子園準優勝も果たしています。

中でも60年夏、61年春は田丸仁監督の「ドジャースの戦法」を基礎とした近代野球で甲子園連覇を成し遂げました。この田丸さんが私をスカウトの道に導く人物なのですが、それはまた後ほど触れることにします。余談ですが、法政二高の2学年上には「ルビーの指環」で有名な寺尾聰さんがいらっしゃいました。

私は1年生の秋からユニホームを着させてもらうようになりました。当時の上級生の素行があまり良くなく、活動停止状態だったこともあって我々の学年を中心に対外試合を行うようになっていました。

私が捕手としてバッテリーを組んでいたのは同級生の宮台俊郎でした。後に帝京大に進み、首都リーグで首位打者も獲得した選手です。投手兼内野手で学生、監督の両方で優勝を経験しています。ロッテOBでユーチューバーの里崎智也の恩師になりますね。今でも交流のある楽しい仲間です。

宮台とのバッテリーで2年生から主力として試合に出させてもらっていましたが、最後の夏はベスト4で終わりました。相手は武相でした。その武相が甲子園に出場して、エースが1学年下の島野修でした。後のドラフト会議で明治・星野仙一さんが「巨人の1位は島野と星野の間違いじゃないのか」と名言を残した、あの島野です。プロでは華々しい活躍とはいかず、阪急で「ブレービー」、オリックスで「ネッピー」として長年活躍したことで有名になった人物です。

私はというと大学でも野球を続けることになります。法政二高から法政大学というラインがあるわけですが、素行が悪かった先輩たちの影響もあり内部生が進学できないわけですよ。

そこで、先輩が1人だけ芝浦工業大にいたんです。その方を頼って練習に参加させてもらって、捕手としてセレクションを受けるんですが、強力なライバルがいました。後に広島からドラフト1位指名される道原裕幸です。さらに同期となる内野手に大野保雄(後に日本石油)がいて、この2人は合格が決まっていたわけです。

ところが、です。どういうわけか大野と菊地を間違えて、道原と菊地を野球部で獲るとなってしまったそうなんです。そうなると菊地もキャッチャーじゃんという話になる。そういう事情もあって大野を追加合格する形にして、獲得するって言っちゃった手前もあり菊地も間違って芝浦工大野球部に入ることになりました。

すると…。道原が上級生を押しのけて1年生から試合に出場するんです。私なんて裏方ですよ。当時、2つ上級生の捕手が河村健一郎さん(日本石油を経て71年にドラフト外で阪急入り)。二軍時代のイチローの師匠と言われている人物です。

当時の芝浦工大は私が入学する前の秋の入れ替え戦に勝ち、次年度の春から1部に昇格。そこから我々が卒業するまでの4年間ずっと1部をキープしました。ちょうど学生運動が盛んになった時期で、その後は運動部員を全く獲らないことになってしまいましたが、強い4年間を過ごさせてもらいました。

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