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【菊地敏幸連載#8】高校時代は無名だった小林敦美がまさかの好投でマスコミにの的に

東スポWEB / 2024年7月23日 11時16分

プロでは1勝に終わった小林

【菊地敏幸 辣腕スカウトの虎眼力(8)】芝浦工業大から社会人野球のリッカーに進んだ私は現役として7年、コーチとして3年、野球部でお世話になりました。

コーチの期間には中西清起が入部してきました。1980年春のセンバツの優勝投手であり、後に阪神のリリーフエースとなる中西です。本当に生意気でしたね(笑い)。甲子園のスターがなぜプロではなくリッカーなの? 実際にそう思いました。普通は来ませんよ。

3年後には絶対にプロに送り込むという道を用意する約束をしていたんでしょうね。何しろ、その3年後にはリッカーの野球部が会社の経営不振でなくなってしまうんですからね。中西をプロに行かせるために、野球部を最後まで持たせたと言ってもいいでしょう。会社は給料の遅配なども重なり、大変な状況であったことは社員なら誰でも知ってましたし、社会的にもニュースになりました。

私自身もリッカー野球部の次期監督ということになっていましたが、それどころじゃない。ユニホームよりもいったん会社に入って仕事を覚えろと言われてはいましたけれども、会社自体が経営の危機となればどうにもなりませんでした。

中西は無事に83年のドラフト1位で阪神入団が決まりました。それとタイミングを合わせるように、翌84年1月に野球部は休部、廃部となりました。当時の監督だった中村和久さんは巨人のスカウトに転身。私も転職活動をせざるを得ない状況に陥りました。

リッカー野球部時代には多くのプロ野球選手がチームから巣立っていくのを見送りました。80年に南海ホークスのドラ1となった山内和宏もそうです。83年には18勝で最多勝も獲得しています。76年春のセンバツ優勝投手の黒田真二(82年ヤクルトドラフト外)との2本柱で活躍してくれました。

実績としては中西清起を最後に山内和宏、田中和博、黒田真二、小林敦美の5投手をプロの世界に送り込みました。当時の小林は無名で山口の宇部鴻城高まで視察に行ったら、それは球が速かった。なのに高校時代の公式戦では0勝。そりゃ、目立ちようがないんですがボールは一級品でした。つまり、チームメートに恵まれず、相手の打者に前に飛ばされたらアウトを取れないチームのエースだったんです。

リッカーで預かった後はデビュー戦で結成直後だったプリンスホテルにぶつけました。主力の調子が悪く、そうそうたるメンバーを揃えた社会人との公式戦に新人をぶつけたらピタッと抑えちゃったんですよ。小林は入ったばかりでオープン戦だと思って投げていたらしいんです。マスコミはプリンスホテルそっちのけでリッカーの小林ってなっちゃって。確か150キロ以上は投げてたんじゃないかな。

小林は83年のドラフト2位で阪急入りしました。デビュー戦となった84年5月28日の日本ハム戦(西宮球場)では初完封初勝利を記録しました。ただ、これがプロでの唯一の勝ち星でした。そういう選手たちを目の当たりにしてきたことは、後に私がスカウトとして活動する上で糧になってくれました。

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