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【ザ・グレート・カブキ連載#3】過酷を極めた練習…スクワット1000回もしょっちゅう

東スポWEB / 2024年8月21日 16時4分

ハードだった日プロの練習。(左から)駒角太郎、米良(65年8月)

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(3)】1964年3月に日本プロレス(日プロ)に入門した自分(米良明久)は、デビューを目指して鍛錬の日々でした。当時の練習はハードでしたよ。

朝はみんなで赤坂の合宿所を出て、渋谷のリキパレスに行って昼過ぎまで練習します。ウエートトレーニングが中心の日と、スパーリングが中心の日が交互にありました。例えば、月曜日にバーベルを使ったり、スクワットをしたりとウエート中心のメニューだったなら、火曜日はウエートを軽めにして、リング上でのスパーリングなどがメインになります。

そのスパーリングがイヤで新弟子は逃げていきましたね。先輩たちにグチャグチャにやられるから…。フェースロックとか拳がゴリゴリ顔面に入ってくるから、最初は口の中を切ってザクロみたいに真っ赤になるんですよ。ウエートも厳しかったですよ。スクワットの回数は、その時の雰囲気で決まるんですけど「1000回」とかの時もしょっちゅうありましたから。

余談ですけど、リキパレスって、玄関を出たら、すぐ坂になってるんです。だからハードな練習だったとき、若いヤツは壁に沿って歩かないとコトンとヒザから落ちてコロコロって下に転がっていったんですよ(笑い)。

だから2~3日で辞めていくのがいっぱいいたんです。逃げるヤツはすぐわかる。“泣き”が入るから。辞めないのは、言われたことを黙って「ハイ、ハイ」って聞いているヤツですよね。自分が生き残れた理由? これしかなかったから。辞めて帰ってもどうにもならないから、しがみついとかなきゃって思いました(笑い)。母は愛知から延岡に戻っていたから、いまさらそこへ帰ってもどうしようもなかった。当時は今のように選ぶ道も少なかったんですよ。「バイトすればいいや」とかはなかったからね。

それに、給料も週3000円。そこから税金が10%引かれて2700円ももらっていたんですよ。当時は大卒の初任給が2万円くらいの時代。しかも合宿所にいてお金を使うこともなかったし、外に食事をしに行けば兄弟子が全部出してくれる。だから、たまに母親に仕送りをしたりしていました。ちょっと先の話だけど、入門して2年くらいでボーナスが出て、それで伊勢丹に行って着物と帯を買って送ったら母親に「何か悪いことしたんじゃないか」って疑われて、参っちゃいましたよ(笑い)。

それくらい、当時の日プロは景気がよかったんですよ。お客もたくさん入ってましたからね。力道山がいなくなっても吉村道明さんに豊登さん、そして米国から帰国してきたジャイアント馬場さんがいて、すごく盛り上がっていたんです。そんな中、自分は入門から半年でデビューすることになったんです。

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