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【ザ・グレート・カブキ連載5】付け人が旅館で最初にするのは洗濯機の確保

東スポWEB / 2024年8月26日 16時9分

ファンの前で若手に稽古をつける馬場(左)と見守る上田馬之助(中)、芳の里(65年10月)

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(5)】日本プロレスに入門してから約7か月で宮城県石巻市の石巻小学校校庭につくった特設リングでこてっちゃん(山本小鉄)を相手に正式デビューし、それから半年ほどたった1965年の春ごろでした。

当時、付け人をしていた芳の里さんから「お前、宮崎の出身だったよな?」って声をかけられたんです。延岡市の出身だったので「そうです」って答えたら「あそこ、高千穂ってあるよな。じゃあ、お前、リングネーム、高千穂にしろよ」って言われて。それまでは本名の「米良明久」でリングに上がっていたんだけど、この日から「高千穂明久」になりました。

これが最初の“改名”です。当時はうれしかったですよ。なんだか、レスラーとして認められたような感覚がありました。今でもオヤジ(芳の里)のことは尊敬していますよ。オヤジから習ったのはやっぱり「人には優しく」っていうことかな。どんな人にも、礼儀やあいさつを「大事にするように」って教え込まれましたね。

付け人といえば、当時は人員整理などもあった影響で、自分一人が芳の里さんのほかに豊登さんと吉村道明さんにも付いていました。だから、巡業なんかで旅館に着いたら、最初にするのは洗濯機の確保なんです。洗濯物だけで3人分。けっこうな量になるんですよ。いろいろ苦労もありましたけど、かわいがってもらいました。みんな優しくてね。もちろん変なことをしたらぶん殴られることもあったけど、ちゃんとやることやっていたら全然怖くなかった。自分は付け人としてはよくできていた方だと思います(笑い)。キチッとしていたからね。

当時のプロレス人気は、もうすごかったですよ。どこへ行っても満員でした。学校の校庭で試合をすると、そこに何百人と観客が入った。校庭が人でいっぱいになるんですよ。このころのお客さんは、静かにジーッと試合を集中して見ている感じで、四方八方から視線を感じるほど。だから試合をしていても、変なことができないなというのがありましたね。今とはやっぱり違いました。

このころ、人気の中心だったのは米国から凱旋したばかりのジャイアント馬場さんでした。初めて見た時の印象は、とにかく大きな人(身長2メートル9センチ)だなあって思いましたよ。「こんな大きな人がいるんだ…」というのがまず驚きだよね。力道山先生(63年12月没=享年39)が亡くなって、日本に帰ってきたら人気がすごかった。米国でも大活躍していたんだけど、偉ぶるところはなかったし、優しい人だった。

ただ、この当時の馬場さんは試合で“固かった”ね(笑い)。そして、この年は鳴り物入りの後輩も入門してきました。ただ、その関係は…。

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