1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. 格闘技

【ザ・グレート・カブキ連載#11】オーストラリアの会場にはながーい棒を持ったスタッフがいて…

東スポWEB / 2024年9月4日 16時14分

馬場(右)とともに凱旋帰国したジャンボ鶴田(73年10月)

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(11)】お家騒動に大揺れとなった日本プロレスは1973年4月20日に最終戦を終え、事実上の活動停止となりました。“追放”されたアントニオ猪木さんは72年に新日本プロレスを旗揚げし、ジャイアント馬場さんは全日本プロレスを発足させたので、私は米国に戻ろうと思っていたのですが、全日本のリングに上がることになります。

芳の里さんが馬場さんに「全日本で何人か選手を引き取ってくれ」という話をしていたので。自分は“全日本に行きたい”というのはなかったんですが、芳の里さんの顔を立てるというのもあって、参戦することになります。日プロからの移籍組に対して、馬場さんは「やりたきゃ一生懸命やれ」みたいな放任している感じでしたね。

同年10月に、修行先の米国から戻ってきたのがジャンボ鶴田です。当時のジャンボに対しては馬場さんが一人で“ヨイショ、ヨイショ”している感じでした。あんまりにも馬場さんが持ち上げるから、ジャンボ本人も鼻が高くなっちゃってね。「そんなに胸張って歩いてたら、風が吹いただけで倒れるぞ」って感じでした(笑い)。

自分はそんなジャンボと入れ替わる感じでサムソン・クツワダ(※1)とオーストラリア遠征に行きました。当時のオーストラリアは良かったですよ。米国人のジム・バーネットという男がプロモーターで金払いも良かった。お客さんもよく入った。バーネットが早くから開拓していたから出来上がってました。会場によっては何万人と入ることもありましたよ。

オーストラリアの会場といえば、客席の後ろにながーい棒を持ったスタッフが立っているんです。興奮して立ち上がったお客さんを後ろから棒でぶっ叩いて座らせるために(笑い)。あれは他の国でも見たことがないですね。オーストラリアだけだったんじゃないかな。当時は治安もあまりよくなくて、お客さんが平気でナイフやピストルを持って会場に来るんです。さすがに銃で撃たれることはなかったけど、興奮した客にナイフで切られたことはありますよ。向かってくるヤツが多かったから。そういう時はどうするか? そりゃあ、まあ、その辺のイスでこう…。フッフッフ…。

それと、アッパーカットを習得したのもこの時代ですね。サイクロン・ネグロ(※2)っていう選手に教わった。ボクサー上がりでパンチがうまくてね。練習場でサンドバッグを打ちながら教わったんですよ。この技は後々まで使い続けて何度も助けられました。そして日本には翌年1月に戻ったんですが…。

※1 大相撲出身。しこ名は二瀬海で最高位は幕下23枚目。
※2 ベネズエラ出身。カリプス・ハリケーンとしても活躍。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください