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PL学園で甲子園優勝→近鉄ドラ1の〝エリート〟なのに腰が低かった朝井秀樹【平成球界裏面史】

東スポWEB / 2024年9月8日 9時12分

PL学園のエースだった朝井秀樹

【平成球界裏面史 近鉄編69】近鉄から野球選手の道をスタートしメジャーリーガーにまで上り詰めた岩隈久志。最後のユニホームとなった巨人時代、その引退会見を盛り上げたのは元近鉄同僚の朝井秀樹広報だった。野球界は意外に狭いことは事実であるにせよ、人のご縁とは不思議なものである。

2024年(令和6年)から朝井は巨人の一軍サブマネジャーを務めている。以前には本紙で評論家を務めていただけに、その記憶が残っているファンも多いのではないだろうか。今回は近鉄戦士の1人として朝井秀樹投手について取り上げさせてもらう。

大阪市東住吉区出身の朝井は幼少時から野球になじみ、中学時代にはボーイズリーグの大会で世界一を経験。平成11年(1999年)には高校野球の名門中の名門、PL学園に入学する。そして2年の夏には背番号10ながら実質的にはエースとして活躍。夏の甲子園にチームを導いた。

3年時にはエースが朝井。3番打者には後に阪神で活躍する桜井広大、4番にはロッテに入団する今江敏晃(現楽天監督)を要する最強メンバーで甲子園での全国優勝を目指すはずだった。

だが、夏の甲子園への出場がかかった大阪大会組み合わせ抽選会直前のタイミングで、部内での暴力事件が発覚。優勝候補だったPL学園だが監督が辞任、チームは出場辞退と最悪の状況になってしまった。

プロ野球選手を3人も輩出することになるチームが夏の甲子園の地区予選に出場できない。これは当時、全国の野球ファンを震撼(しんかん)させるニュースとなった。

今更、当時のことを掘り下げるつもりはない。朝井にはその後の野球人生が続く。平成13年(2001年)のドラフト会議では近鉄から1巡目指名。その3年後には球団が消滅してしまう未来など知るよしも無かっただろう。

祖父が熱心な近鉄ファンだったこともあり朝井は藤井寺球場、日生球場もなじみの場所だった。ドラフトされる直前の9月26日には北川博敏(阪神二軍打撃コーチ)の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を生で目撃している。

大阪出身で近鉄のチームカラーも抜群に似合う。大活躍となれば人気者になることは間違いないと周囲は期待した。だが、1年目の平成14年(02年)からの2シーズンはほぼ体力作りに専念。一軍デビューしたのは平成15年(03年)9月24日のオリックス・ブルーウエーブ戦(大阪ドーム)だった。7回から3番手で1イニングを無失点という結果がプロとしてのキャリアのスタートだった。

3年目となる平成16年(04年)の朝井は期待を受けていた。前年シーズン終盤に一軍デビューしていただけに勝負の年。年明けには大阪・今宮戎神社で恒例行事だった宝恵駕籠行列に参加した。宝恵駕籠というカゴに乗り、神社までの参道を練り歩くという行事だが、平成13年(01年)には近鉄・梨田監督がカゴに乗って最下位からリーグ優勝に輝いたという縁起のいいイベントだ。

この場で朝井を取材した記憶が残っている。「3年目の朝井です。よろしくお願いします!」とハツラツとした印象的だった。こちらから「PL学園からドラフト1位の選手なので、どんなにイカツイ人なのかと思っていたよ。下の名前が同じ『ヒデキ』なので陰ながら応援しています」と声を掛けると「頑張ります!」と笑顔を弾かせていたことを思い出す。

それなのに…。これが朝井にとってだけではなく全ての近鉄球団関係者にとって最後のシーズンとなるとは、誰も予想していなかった。

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