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【ザ・グレート・カブキ連載#29】50歳を目前に本気で考えた自分の「進退」

東スポWEB / 2024年10月9日 16時10分

アイデアマンだった浅野社長(右)と握手を交わすカブキ

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(29)】反選手会同盟から改名した平成維震軍メンバーとして3年ほど新日本プロレスのリングに上がっていた自分ですが、1995年7月の維震軍の自主興行シリーズをもって会社から契約満了を告げられました。「お疲れさまでした。長い間ありがとうございました」という感じの、いわゆる円満退団です。

実は自分は、このタイミングで現役を引退するつもりだったんです。ある程度「やり切ったな」というのもありましたし…。ただ、まだ50歳になっていなかったから「あと2~3年はできる。大丈夫だな」という考えも持っていて…。そんなとき、大相撲出身で全日本プロレスのリングにも上がっていた石川敬士が立ち上げた「東京プロレス」から声がかかったので、同年9月から参戦することにしたんです。

当時は天龍源一郎をエースとしてメガネスーパーが設立したSWSの崩壊余波で、インディ団体が乱立していた時代。東京プロレスもその一つでした。そこからIWAジャパン(Iジャ)のリングにも11月から上がるようになりましたね。

Iジャはおもしろい団体でした。いろんな選手がいたけど、なにより社長の浅野金六さんがおもしろかった。彼とは全日本プロレス時代から知り合いだったから、やりやすかったですよ。新宿二丁目のお店にも何回か飲みにも行っていました。96年には東京プロレスが崩壊して、自分はIジャに加入することになったんだけど、その時に金六さんがうちの家の前まで来て、土下座し「自分たちの団体に来てくれ」って懇願したんです。

もちろん、あくまでパフォーマンス。金六さんのアイデアでした。そういうおもしろいアイデアをポンポンと思いつく人でした。印象深いのは金六さんが「俺もリングに上がりたい」って言い出したことです。それで本当に上がって、ボッコボコにやられていておもしろかったなあ…。選手たちから「なめんじゃねえ!」ってね。

このころ、日本ではまだフロントが表に出てくる…っていうのはなかったですから。米国でちょこちょこあるかな、くらいの時代でしたから金六さんは新鮮でしたね。

Iジャでは初代タイガーマスクとも試合をしました。ここまで接点がまったくなかったんですよ。実際に組むと、うまかったですよ。動けていましたしね。これがタイガーマスクかって。姿勢も正しく、言葉遣いもちゃんとしていました。初代虎との初対戦が、あのタイミングで良かったです。どういうふうにしたらお客さんが沸くかわかる状態で組みましたから。そういう意味でやりやすかったですよね。

ただ自分も50歳が間近に迫ってくると、本気で「進退」を考えるようになっていました。

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