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【宮崎祐樹連載#5】亜細亜大学の同僚、岩本貴裕や中田亮二に比べて「俺なんて全くダメ」

東スポWEB / 2024年10月29日 11時35分

元中日の「ブーちゃん」こと中田は亜細亜大のチームメートだった

【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(5)】高校時代はプロのスカウトからもチェックが入る存在として自分を認識していました。大学へも希望を持って進学してきたつもりでした。ただ、完全に野球人生としては亜細亜大野球部としての自分はどん底でした。

1年の時ぐらいはまだ、体力をつけて慣れれば大丈夫かなと思っていました。ただ、2年、3年と進むにつれて絶対に無理やなと思うようになっていました。もう、プロになりたいと考えることもなかったですね。

同学年にはカープから2008年ドラフト1位で指名された岩本貴裕外野手がいました。学生時代には東都大学リーグ歴代4位の16本塁打を記録したスラッガーでした。金本知憲さんがつけていた背番号10を与えられ将来を嘱望された存在でした。

同時期には中日からドラフト3位で指名された中田亮二も存在していました。明徳義塾時代に甲子園で活躍した通称「ブーちゃん」です。大学時代も1年春からレギュラーで起用され東都リーグ史上14人目の通算100安打を達成しています。
プロ注目の2人の他にも、プロになれるんじゃないかという存在が複数いるチームでした。そういうチームメートの中で僕は「俺なんて全然、センスないわ、全くダメだ、みんなとは差がある」と感じてどんどん自信をなくしていきました。

大学4年生になると早々に生田監督と面談があるんです。将来の進路についての相談です。完全にプロなんて諦めていた僕は地元に帰って教員になると決めていました。実際にその考えを生田監督にも話したんです。
「教員になります。野球は辞めます」。そう告げると監督は「もったいないぞ。辞めるなんて、もったいない」と言います。当時の僕としては意味がわからなかったですね。試合にも出てないし、社会人野球に進むなんて無理でしょ、と当然ながら思っていました。

すると監督は「俺が行けと言えば、どこにでも行くか?」と質問してきます。監督に対して「ノー」はありませんでした。「はい」と即答すると「北海道でも行くか? 沖縄でも行くか?」と矢継ぎ早に質問が飛んできます。それに「はい」と即答していると、監督は「お前はセガサミーに行け」と進路を用意してくれました。

僕としては「ええええっ、行っていいんですか」という感覚です。しかし、ここに至る経緯はあったんです。亜細亜大から右の外野手2人がセガサミーに派遣され、セレクションとして練習参加した機会がありました。そこに監督から「お前も一緒に行ってこい。勉強にもなるから」と合流させてもらっていました。

そこで元南海、ダイエー、西武で活躍された佐々木誠監督と出会うことになります。楽天・黒川史陽内野手のお父さん、黒川洋行コーチも在籍されていました。亜細亜大の野球は一部の中心選手以外にはチーム打撃の徹底が厳命されていました。練習でもそういう打撃を求められます。しかし、その日のフリー打撃では「好きに打っていい」と免罪符が与えられていました。

亜細亜大の超管理野球から完全に解放されたリミッター解除です。行くんだったら行けの状態です。その際の僕の打撃が評価されたそうです。自分ではそんな自覚は全くなかったんですが、佐々木監督、黒川コーチから高評価を得ることができました。これで、また人生が変わりました。

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