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【吉田秀彦連載#2】毎日叱られ真夜中まで仕事、楽しみは寝ること…講道学舎は地獄でした

東スポWEB / 2024年12月3日 16時4分

吉村和郎氏(右)と山下泰裕氏

【波瀾万丈 吉田秀彦物語(2)】中学3年で柔道私塾・講道学舎に入りました。当時の学舎は形ができ始めたころ。自分は毎日、怒られていました。たぶん学舎史上、横地治男理事長(※)から一番怒られた男でしょう。何か、怒りやすかったみたい。

弦巻中で全国大会に出たとき、団体戦で自分は引き分けたんです。自分は負けてないんですけど、チームが負けた。それで「お前のせいで負けたんじゃ! どこでメシ食ってんじゃ、吐け!」って。でも、吐けないでしょ…。それを1年間、言われ続けました。横地先生が怒ったのは、引き分けたことではなく、試合内容が良くなかったと。「取りに行く」という攻め続ける姿勢を見せなかったからでした。

学舎での生活も朝起きて柔道、学校から帰ってきても柔道の毎日でした。だから学校は寝るところだと思っていました(笑い)。しかも「柔道が好き」というわけではなかったので、楽しみは寝ること。とりあえずあの当時は毎日が地獄でした。午前5時40分に起床し、5分後に道場に整列。練習では理事長、吉村和郎先生に叱られ、練習終わったら先輩に使われて真夜中まで仕事があったから、2年くらいはしんどかった。

軍隊というより刑務所でしたから「いつやめようかな」と思っていましたね。当時はいきなり朝起きたらいなくなって“逃亡”している生徒もいました。でもやめて田舎に帰っても、大石道場から来てる先輩は全国で活躍していたので「やめて帰ったら笑われるな」と。だから、やめられなかった。自分の場合、実際にやめて愛知に帰っても「東京に連れ戻される」というのも、わかっていましたから(笑い)。

理事長は元陸軍少佐だった方で、朝にだいたい1時間くらいお話があり「覚悟を決めなさい」と言われました。「お前らは覚悟がないんじゃ。私はな、中国に戦争に行って、常に前(線)を行っていた。覚悟を決めればタマ(銃弾)もよけるんです」という例えをされていました。

勉強した今となれば「いい先生だったな」と思います。自分は、日本は敗戦国だから米国と一緒じゃダメだと思うんです。だから今、この世の中を見たら「努力」「根性」「気合」で日本をつくり上げてきたおじいさん世代がかわいそうだなって思いますね。

だけど当時はわからない。「話長いな、早くやめたいな、早く学舎出たいな」としか考えていませんでした。柔道は弱かったし、毎日怒られていて…今で言う虐待、パワハラかもしれません。ただ、そういったものを我慢して精神力が自然と身につき、精神的に強くなったのも事実なんです。

※実業家。講道学舎創設者で五輪選手含め約200人の選手を育てた。故人(享年95)。

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