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【橘高淳連載#2】85年審判員としての初キャンプ出発前 友寄正人先輩と同じアパートで合宿状態

東スポWEB / 2025年2月13日 11時10分

審判員として活躍した友寄氏(左は落合監督)

【橘高淳 審眼(2)】1985年1月11日は、私がセ・リーグに入局した日です。当時の審判員は所属がセ・リーグとパ・リーグに分かれ、リーグ内でも関東所属、関西所属がありました。

私は関西でしたので、先輩の皆さんと甲子園に集まってキャンプに向けた準備に取り掛かりました。1シーズンの長丁場を乗り切るためには体力が必要です。ランニングなどのトレーニングを入念に行いました。

審判員としては新人ですから、夜はルールを徹底的に勉強しました。少年野球から高校野球を経てプロ野球選手をやってきたのでインフィールドフライ、振り逃げなど、ある程度のルールは体感的には理解していました。しかし、専門的な見地から特別にルールを学んだわけではありません。

公認野球規則の1ページ目から知っている野球選手はどれくらいいるでしょうか。まず最初の1・01では「野球は、囲いのある競技場で、監督が指揮する9人のプレーヤーから成る二つのチームの間で、1人ないし数人の審判員の権限のもとに、本規則に従って行われる競技である」と定義されています。読んで字のごとく、アンパイアが存在しないとゲームは成立しないんですね。

私は先輩の友寄正人さんにルールを徹底的にたたき込んでもらいました。友寄さんは78年からセ・リーグ審判員となり、2014年から22年にかけて第2代審判長も務められました。私はその友寄先輩と同じアパートに入れと言われ、当時は合宿状態でした。突貫工事ではないですが、グラウンドに出発する前にも先輩の講義を受けてから仕事に臨むという毎日を過ごしました。

できる限りの準備を整え、初めて赴いたのは中日ドラゴンズの一軍キャンプでした。85年2月、宮崎県串間で審判員として初のキャンプです。当時、宮崎県で春季キャンプを行っていたのは宮崎市の巨人(米グアムと併用)、日南市の広島(沖縄市と併用)の3球団だったはずです。

キャンプの第2クールくらいから現地に入り、中日の練習をフルカバー。ブルペンではストライクとボールの判定、打撃練習やシート打撃でも球審の練習をやりました。シートノックや守備練習でも審判としての動きを学ぶ毎日でした。

宿舎に戻れば、夜は先輩からルールの講義を受けることになります。プロ野球選手の生活の流れに関しては慣れていましたが、審判員としては初めてのキャンプでしたので最初はかなり疲れましたね。

そこからまた関西に帰ると、今でいう教育リーグが始まります。ウエスタン・リーグのオープン戦のようなイメージです。当時、阪神は兵庫・尼崎にあった浜田球場を使用していました。公式戦ではないですが、浜田球場で初めて球審を務めた時、両軍合計29得点という大味な試合になり、4時間以上の長時間ゲームになってしまったと記憶しています。

まだ寒い時期でしたし、唇も乾燥したりで大変だったはずなんですが、当時はガムシャラでしたから覚えていません。ただ、その試合の取材に来ていた阪神の番記者の方から取材を受け、どこかの関西スポーツ紙で「元阪神の橘高が審判デビュー」というような記事を書いてくれた覚えがあります。

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