「西郷どん」と「ふぐ食解禁」の不思議な縁
LIMO / 2018年2月2日 20時20分
「西郷どん」と「ふぐ食解禁」の不思議な縁
今年はふぐ食解禁130周年(1)
2月9日は「ふくの日」
冬の味覚として人気があるふぐ。特に寒さの厳しい今年の冬は、ふぐのひれ酒やふぐちりが恋しくなります。
ふぐの一大水揚げ地である山口県の下関では、縁起を担いで、フグのことを「ふく」と呼びます。その語呂合わせから、下関ふく連盟は2月9日を「ふくの日」に制定しています。
ちょうど1週間後の「ふくの日」にちなんで、ふぐ食の話をしてみたいと思います。
長く禁止されていたふぐ食
ふぐの身はとても美味ですが、内臓などに猛毒を持ちます。大阪ではふぐの鍋のことを「てっちり」と言いますが、「鉄砲+ちり(鍋物)」が語源とされています。「当たると死ぬ」から「鉄砲」ということのようです。
歴史をさかのぼると、ふぐ食は縄文時代から始まっていたようです。千葉県市川市の姥山貝塚からは、4,000年以上前にふぐ中毒で亡くなったと考えられる家族の人骨が見つかっています。
それ以来、「ふぐは食いたし命は惜しし」という言い回しがあるくらい、美味を求めて、本当に命をかけてふぐを食べてきた日本人ですが、ふぐ食が全面禁止となった時代がありました。
安土桃山時代の末期、豊臣秀吉は国内を統一した後、文禄・慶長の役で諸大名に朝鮮出兵を命じます。各地から兵が九州に集結しますが、その途上、ふぐを食べて中毒死する兵が相次ぎました。兵力の減少を恐れた豊臣秀吉は、全面的なふぐ食禁止令を出しました。
この禁止令は、江戸時代も続きました。下関がある長府藩(長州藩の支藩)でさえ、ふぐを食べたらお家断絶とされていたそうです。ふぐは、武家以外の民衆の間でこっそりと食べるものでした。
「西郷どん」の西南戦争をきっかけにつくられた下関の医院
明治維新150周年の節目となる今年のNHKの大河ドラマは、「西郷どん(せごどん)」です。主人公の西郷隆盛は明治維新の大立役者ですが、新政府の内部対立により、下野して郷里の鹿児島に戻ります。その後、新政府に不平を持つ士族に担がれる形で西南戦争を起こし、最期を迎えます。
さすがに西郷隆盛が率いる軍との戦いとなれば、多くの死傷者が出ることが予想されます。そこで明治政府は、負傷兵を収容する臨時の陸軍病院を各地につくります。それでも足りず、1人の医師に下関に病院をつくることを要請します。
下関が選ばれたのは、明治政府側の要人を多く輩出した長州の主要な街ということに加え、西南戦争で九州全体が戦場になる長期戦を想定していたからだと考えられます。
その要請を受けた医師とは、中津藩(今の大分県)の御殿医だった藤野玄洋という眼科医です。
中津藩は、藩主の奨励もあり、江戸時代後期には蘭学が盛んだったところです。「解体新書」の前野良沢や、慶應義塾大学を創設した福沢諭吉などの人物を多く輩出しています。
藤野玄洋は福沢諭吉の後輩に当たり、福沢諭吉が塾頭を務めた大阪の適塾に学んだ後、長崎でオランダの軍医のボードインに師事して眼科医となりました。当時の眼科医は広く外科も扱っていたようなので、負傷兵の治療を担うには適していたと思われます。
要請を受けた藤野玄洋は1877年(明治10年)、地元の豪商の支援のもと、下関に月波楼医院を開きます。傷病兵の治療を想定していたためか、治療施設のほか、リハビリ用の薬湯浴場や、長期入院患者用の娯楽施設も併設していたそうです。
ところが、西南戦争が比較的短期間に終わり、患者も減ったことで医院は閉院します。その残った施設を改装して旅亭にしたのが、妻の藤野みちでした。
1人の女将がお手打ち覚悟で時の内閣総理大臣にふぐを出す
女将となった藤野みちが切り盛りした旅亭は、皇族や政府の要人たちに愛顧されたようです。1887年(明治20年)に藤野玄洋が没した後も、藤野みちはこの旅亭の経営を続けます。夫を亡くした年の暮れ、初代内閣総理大臣となっていた伊藤博文が旅亭に宿泊しました。
宿泊の日は、海は大荒れで魚が手に入りませんでした。なぜかふぐしかありません。困り果てた藤野みちは、お手打ち覚悟で、禁制のふぐを供しました。
供されたふぐを食べた伊藤博文は、その美味を称賛し、「きちんと調理がなされるなら」ということで、ふぐ食禁止を解くよう山口県令(今の知事)に働きかけます。その結果、翌1888年(明治21年)に解禁となり、藤野みちが経営する旅亭が、ふぐ料理公許1号店となりました。
ですから、今年はふぐ食解禁130周年となるのです。
西南戦争が起きなかったら、後に旅亭となる医院が建つこともなかったでしょう。伊藤博文が宿泊した日が不漁でなかったら、時の権力者に禁制のふぐを出す覚悟が女将になかったら、ふぐが供されることもなかったでしょう。
歴史に「もし」を持ち込んだらきりがありませんが、いろいろな巡りあわせで、豊臣秀吉の時代から約300年間、公には認められなかったふぐ食は解禁となりました。
ふぐ食解禁の舞台のその後
ところで、ふぐ食解禁の舞台となった旅亭では、建物ごとに名前がつけられていました。ふぐ食解禁の少し後に建てられた建物には、伊藤博文の命名で「春帆楼(しゅんぱんろう)」と名付けられます。この建物の名前が、旅亭全体の名前となります。そして、後には日清戦争後の下関条約(日清講和条約)締結の舞台になります。
なお、伊藤博文にふぐを出した女将の藤野みちは1921年(大正10年)に亡くなります。女将亡き後は経営が成り立たないという判断で、いったん廃業となりますが、地元の名士に経営権が移って再開となります。その後、経営者は何度か変わっていきますが、現在はオリックス(8591)の子会社として命脈を保っています。
(2)へ続く
【参照】「雑録春帆楼」(梅﨑大夢)、春帆楼ウェブサイト(https://www.shunpanro.com/about/history.html)
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