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授業で置き去りにされた歴史を掘り起こすと、見えてくるもの

LIMO / 2018年3月17日 21時15分

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授業で置き去りにされた歴史を掘り起こすと、見えてくるもの

坂本龍馬を、勝海舟も木戸孝允も「坂本良馬」と記した

坂本龍馬はなぜ「りゅうま」じゃなくて、「りょうま」なのでしょうか。それがわかるのは、「良馬」と記した史料があるからです。

「良」の字は、「りょう」とは読みますが、「りゅう」とは読みません。「良馬」という記述は、勝海舟の「氷川情話」に出てきますし、木戸孝允の手紙でも複数記されています。ほかにも「良馬」と記した史料は多々あります。文字ではなく会話で「りょうまさん」あるいは「りょうさん」と呼んでいた人なら、真っ先に浮かぶのが「良馬」だったということでしょう。

龍馬本人も、姪宛ての手紙で「りよふ」と記しています。現代表記でいえば「りよふ」は「りょう」ですから、まちがいなく「りょうま」です(参考:高知県立坂本龍馬記念館)。

頼朝、頼家、実朝に次ぐ鎌倉幕府の将軍って、誰?

歴史授業では数々の疑問が生まれますが、たいていは解決せずに過ぎています。限られた時間、受験に出ないことは後回しにしてしまうからでしょう。

後回しにした一つが、鎌倉時代の4代目以降の将軍です。「京都から名ばかりの将軍を迎えた」と教えられただけでした。頼朝、頼家、実朝のあとを継いだ将軍とはどんな方々だったのでしょうか。

鎌倉幕府、名ばかりの将軍が継承され続けたしくみ

頼朝が征夷大将軍に任命された1192年以来、源氏3代のあとは藤原一族の九条頼経(在職期間18年)・頼嗣(同7年)と続き、さらに宗尊親王(同14年)・惟康親王(同23年)・久明親王(同18年)・守邦親王(同24年)が継承。約140年間で9代の将軍が就任しています。

幕府の実権は執権の北条得宗家に握られていたことは知られていますが、地位で見るなら将軍のほうが上。なぜ北条氏の言いなりになったまま、おとなしくしていたのでしょうか。大まかに言えば、幼いときに将軍に据え、意思を持つような年齢に達すると譲位させ、新たな幼い将軍に継承させていたからです。

実朝の後の4代将軍、頼経は2歳のとき将軍候補として鎌倉に迎えられています。幕府は皇族を望んでいましたが、後鳥羽上皇に拒否されます。そこで頼朝の同母妹のひ孫に当たる頼経を摂家の九条家より迎えました。

頼経は当初は、北条政子に養育され、2代将軍の娘を嫁にするなど、北条家の一員と考えていた様子が窺えます。しかし大人になるにつれ、京や鎌倉の反執権勢力が近づくようになり、嫡男の頼嗣(6歳)に将軍職を譲っています。しかし、頼経の反執権勢力とのつながりはその後も続いたため、頼嗣も将軍職を解任され、京へ追放されました。

その後は皇族を迎えますが、成人するとやはり次の将軍に譲位しています。譲位後も幕府とのいい関係が続いたと思われる8代・久明のような将軍もいますが、政治への実権はなく、和歌などの文化面を担っていたようです。

学校に置き忘れた歴史を掘り起こして、人間を知る

鎌倉幕府は滅び、次の権力も、その次の権力も、そして文化も滅び、現在があります。いわば歴史はすべて失敗の積み重ねのようなものですから、現代人にとっては「愚か」に見えてしまいがちです。そう考えると、現代社会の権力や価値観も、やがては「愚か」な歴史の一コマになることは必至といわざるをえません。

学校に置き忘れた歴史を掘り起こすことは、現代を掘り起こすことのように思えてなりません。

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