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「ドーピング」をしても結局、誰も得しない理由

LIMO / 2018年10月17日 11時40分

「ドーピング」をしても結局、誰も得しない理由

「ドーピング」をしても結局、誰も得しない理由

テクノロジーは人間をどう変える?

医療や機械といった分野でのテクノロジーの発展は、臓器移植を可能にしたり、ペースメーカーや義足、人工関節など人間の身体的な補助に役立ったりします。またウェアラブルデバイスによって、さまざまな点で人間の体の機能は拡張されています。しかし、オックスフォード大学のコンピューターサイエンス学教授で、英国トップクラスの人工知能(AI)研究者であるナイジェル・シャドボルト氏は、「そうして拡張されていく私は、どこまで私なのか?」と疑問を投げかけます。

同氏が経済学のエキスパートであるロジャー・ハンプソン氏との話題の共著『デジタル・エイプ』の中で指摘しているのは、この問いは、スポーツにおける「ドーピング」の問題とも共通項があるという点です。同書から、その意味を読み解きます。

拡張されていく私は、どこまで私なのか

私たちは将来、五感の能力を強化するために、体内に増強装置を埋め込むようになるだろう。聴覚や視覚などを鋭敏にするインプラントだ。しかし、こうして機能を拡張させ続けると、難しい疑問が生じる。

「拡張されていく私は、いつ私でなくなるのだろう?」
「拡張機能へのアクセス権を誰が持つかを決めるのは誰だろうか?」
さらに極端なことを言うと、「機能拡張は強制すべきだろうか?」

仮想現実(VR)の世界では、私たちの身振りや、顔・体の動き、平衡感覚やバランスを取るための動作をますます利用するようになっている。聴覚や視覚は言うまでもない。デバイスは、感触や、手など身体パーツが受けたりかけたりする圧力、さらに振動(いわゆる触感覚)を組み込み始めており、原理上は匂い(嗅覚)を使うことも可能だ。

そこで、少しの間、このような想定で考えてみよう。人がその人自身である根拠が頭部に存在するとして、あらゆる意味で頭を支えている体のほかの部分は入れ替えることができると。

私たちの脳と体の関係

主要臓器の移植技術は、1967年に、心臓外科医のクリスチャン・バーナード教授とその患者ルイス・ワシュカンスキーによって先鞭がつけられた。現在では、移植した臓器の拒絶反応を防ぐ技術が格段に進歩している。そのため、異常で恐ろしい手術も考えられるのだが、真剣にそれを開発したり実行したりしようとする人はいない。「科学者ならば、一卵性双生児の頭と体を簡単に入れ替えられる」などと(まったく間違って)思っている人がいるかもしれない。基本的に同一のDNAを持っているので、免疫システムが拒絶反応を起こさないと思うのだろう。

では、一卵性双生児の片方が大きな交通事故に遭い、手術不能の頭部外傷で瀕死の状態となったが、それ以外は無傷だとしよう。もうひとりは、あちこちに転移した末期がんで、すでに入院している……。だが、こうした可能性は人類の未来にほとんど関係ないし、たとえ関係があったとしてもごくわずかだ。

脳を別の体に移植する? ジェームズ・ボンドの映画に出てくるマッドサイエンティストなら、喜んでやるだろうが、まともな人間はそんなことは考えない。それに、「私」の大部分は、脳が何年もかけてこの体と神経系の形状や能力について学習してきたことに基づいているのだ。これまでの頭に完全に新しい体を付けるのは、車に新しいタイヤを付けるのとはわけが違う。あらゆる感情や一体感、すべての運動感覚が、少なくとも一時的には、著しく損なわれるだろう。

狭い意味での「サイボーグ」は存在する

とはいえ、現在の幼い子どもたちが生きている間には、幹細胞を使った再生医療によって、事実上、あらゆる臓器を入れ替えることが、現実的な提案になるだろう。だが私たちはそれが広く行われるようになるとは思わない。企業の幹部が、退職祝いに金時計ではなく、幹細胞から育てた新しい両脚を与えられるのが慣習になることはないはずだ。だが、明らかな例を出せば、いまや腎臓移植はまれなことではないものの、ドナーの数は不足がちで移植にはさまざまな困難が伴う。これと比べると、幹細胞から育てた腎臓のほうが優れた選択肢であり、体には間違いなく適合する。これは人間の脳を別の体でサポートするひとつの方法となるだろう。

では、魅力的な代案である「サイボーグ」はどうだろう? サイボーグとは、もし存在するなら、四肢や臓器ないし体全体をバイオメカニクス的に置き換えた強化人間である。1960年にマンフレッド・クラインズとネイザン・S・クラインによって初めて提唱され、サイエンスフィクションや思索的著作においては60年の歴史を持ち、テレビや映画の題材として親しまれている。

おそらく狭い意味でサイボーグというと、機械的なものを身につけた人間を意味するだろう。これならすでに存在する。車椅子や補聴器、心臓のペースメーカーを使っている人は多い。物理学者のスティーブン・ホーキング博士はコンピューターによる合成音声を使ってしゃべっていた。厳密な定義では、サイボーグはマシンが停止すれば心も停止する、人間とマシンが合体したものである。心臓のペースメーカーはサイボーグにいくらか近いといえる。

「能力の拡張」が持つ意味

方向探知機能、気象情報など、最初はパソコンで利用していたものが、いまやスマートフォンで使えるようになり、間もなく衣服や眼鏡に組み込まれるはずだ。いわゆるウェアラブルテクノロジーである。現在でも、多くの人が、腕時計型デバイスで自分の運動量や脈拍をモニタリングしたり、消費カロリーや毎晩の睡眠パターンを推測したりしている。

現時点で、こうしたウェアラブルテクノロジーを最大限に活用している人やスマートドラッグを使う人は、しばらくの間、家でも職場でも、以前とはまったく違った世界を経験するだろう。

こうした「能力の拡張」が普通になると考えると、不安になるし、SFの世界のようにも思える。

私たちはスポーツ選手がパフォーマンスを上げるためにドラッグを使うのを禁止している。これを金融市場のトレーダーにも当てはめるべきだろうか? 試験を受ける学生はどうだろう? 金持ちの親は、子どものために高価なデバイスや化学物質を購入する権利があるだろうか? ある薬物を使えば航空機のパイロットが緊急事態に的確に対処できる可能性が高まることがわかっている場合、その薬を使わせるべきだろうか? 私たちはすでに、コックピットの計器盤には最高の安全性を持つ最新機器を備えるべきだと主張してきたはずだ。どこに違いがあるのだろうか?

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シャドボルト氏の著書(画像をクリックするとAmazonのページにジャンプします)

選手が違反薬物を使うことの2つの問題

自転車競技の選手が大会の前に不適切な薬物を使うことには、2つの問題がある。まず、その大会はルールのある競技であり、規則を破ることは不正行為だ。またそれは、ほかの競技者がドラッグを使おうと考える動機にもなりかねない。

ボディービルには、ステロイドを使ってよい競技と、ステロイドを使ってはいけない競技がある。このため、取り締まりの問題は一方では減り、一方では増加する。とはいえ、概して、すべてのドラッグや薬物には、ある程度の危険性や副作用が伴うものである。大衆に人気のあるスポーツで、もしも勝つためには結果的に薬物を使用しなければならないようなルールなのであれば、論理的には「薬物を使用している人々」を奨励してしまうことになる。

もし世界的チェリストであるヨーヨー・マが、演奏能力を高める化学物質を進んで注射したり飲んだりしたとしたら、一見、聴衆は得をするように思える。だが、そうすると、プロの音楽家がみんな同じことを始めてしまい、やがて音楽学校に通う音楽家の卵たちが、救急病院に続々と駆け込むことになるだろう。結局、最終的には誰も得をしないのである。

(翻訳:神月謙一)

 

■ ナイジェル・シャドボルト(Nigel Shadbolt)
オックスフォード大学コンピューターサイエンス学教授、同大学ジーザス・カレッジ学寮長。1956年ロンドン生まれ。ティム・バーナーズ=リーと共同で「WWW(ワールドワイドウェブ)」の仕組みを開発。英国を代表するコンピューター科学者で、最先端の人工知能・ウェブサイエンス研究者の一人。王立協会、王立工学アカデミーならびに英国コンピューター協会にてフェローを務めるほか、英国コンピューター協会では会長も務めた。2013年に科学と工学への貢献により「ナイト」の称号を贈られる。

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