個人の資産運用における人的資本とライアビリティ
トウシル / 2023年12月5日 14時12分
個人の資産運用における人的資本とライアビリティ
※本記事は2008年10月17日に公開したものです。
個人が資産運用を考える場合に、現在、明白に持っている財産と負債の他に、資産・負債それぞれの潜在的な可能性について考えることが重要だ。今回は、この問題を考えるために有用な「人的資本」と「ライアビリティ」の二つの概念について考えてみたい。
(1)人的資本
人的資本とは、厳密に測ることができるものではないが、将来獲得可能な収入を現在価値で評価したもので、「自分の株価」のような概念だ。「サラリーマンはカラダが元手だ」などとよく言われるが、たいていの人は何らかの人的資本を持っている。
たとえば、150万円の普通預金と300万円のETFとを持った30歳のサラリーマンは、本人の仕事や能力にもよるが、たとえば1億円を超える人的資本を持っていると考えることができる。期待できる生涯所得は2億円以上あるかも知れないが、金利とリスクを織り込んだ利回りで、将来の稼ぎを現在の価値に評価して1億円だということだ。
サラリーマンの場合、毎年あまり大きく変わらない収入がしばらくの間期待できるので、人的資本の資産としての性質は債券に似ていて、比較的安定している。 450万円の金融資産の3分の2を株式で持っていると考えると、大きなリスクを取っているように思うかも知れないが、150万円の現金と1億円の円建て債券と300万円の株式が自分のアセットアロケーション(資産配分)だと考えて自分の状況を距離を置いて眺めると、風景が少し違って見えるのではないだろうか。通常の、年金基金の運用などよりもずっと低リスクで、ずいぶん手堅い運用方針に見える。
一般には、若い人は金融資産の中で大きな比率でリスクを取っていいように言われることがあるが、その正しい理由は「長期投資だとリスクが縮小するから」ではなくて、「人的資本を考えると金融資産の運用で取るリスクは相対的に小さいから」なのだ。
ちなみに、前者は、ファイナンス研究的には(という以前に、単に数学的に)誤りなのだが、新聞の資産運用特集・雑誌・単行本などに広く流通している、誤った運用常識だ。マネー本の著者の知識の正確性を測るときに有効なチェック・ポイントの一つなので憶えておくとよい(注:運用期間あたりの「年率」の収益の上下バラツキが、期間が長くなるほど小さくなる、右側がラッパ状にすぼまったグラフを付けて説明していることが特徴だ。データに誤りはないはずだが、この見方は不適当なのだ)。
ただし、人的資本には個人差がある。
たとえば、若くても、病気などの事情で収入を得ることが難しい人は、人的資本が小さい。こういう人が、自分は「運用期間が長いから大きなリスクを取ることができる」と思って大きなリスクを取ることが不適当な場合がある。こうした個人差を理解してお金を運用することが重要なのだが、金融機関は、顧客についてそこまで親身に考えてはくれない。彼らは、顧客がお金を持っていれば、そのお金から最大限の手数料を取りたいと考えるだろうし、それが経済合理的には当然のことだろう。
若くて健康な人の人的資本の価値は大きくて割合安定しているが、高齢になると、今後稼ぐことができる時間が縮むし、健康の問題から稼ぎが不安定になるリスクもあって、人的資本の価値は落ちる。その代わり、平均的に見て、高齢者の方が若年者よりも大きな金融資産を持っている。高齢者の全てがお金持ちだというわけではないが、お金持ちの多くは高齢者だ。
人生の送り方という意味では、人的資本が縮小する老後までに、大きな額の金融資産や実物資産を築けると、経済的には成功といえるだろう。
(2)ライアビリティ
自分のお金の問題について考えるには、個人の資産と稼ぎを把握するだけでは十分とは言えない。人は働くためには、食べていかなければならない。住むところも必要だ。自分の衣食住以外にも、家族を単位に考えると、子供など稼ぎ手ではない家族も養っていかなければならない。もちろん、ただ食べて働くだけでなく、レジャーのための支出だって必要だ。財産の運用をどうするかを考えるためには、こうした将来の支出の必要性を考えなくてはならない。
将来お金が必要だ、という状況は、概念的には負債であり、いわば借金のようなものだ。「人的資本」のような決まった単語があるわけではないが、負債の意味の単語である「ライアビリティ」とでも呼んでおくことにする。ライアビリティとは責任・負債・債務などに対応する英語だが、本稿では、以下、将来必要な支払い義務全般を大きく指す言葉としてこの言葉を使う。
ライアビリティは、どのくらいのレベルの生活をするかに関する大きな伸縮性を持っているが、生活のレベルを大きく落とすことは一般に苦しいことなので、これをあまりに小さく見積もることは現実的ではない。
たとえば、高齢者の場合、これからの人生にどうしても必要なお金の額は縮小する。従って、それなりの金融資産を持っていると、生活を危機に晒すことなく取ることができるリスク額も大きくなる。
たとえば5億円持っている高齢者がいて、あと2億円あれば今後の生活を余裕を持って十分やっていけるという見通しがあれば、残りの3億円は全額株式投資しても大丈夫なのは自明だろう。こうした場合、実際には、3億円ではなくて、たとえば4億円株式に投資していても、投資の仕方が集中投資でない限り、4億円がごく短期間(たとえば1年以内)に1億円以下になってしまうようなことは考えにくい。
高齢者は、残りの人生が短い分、ライアビリティが小さくなっているし、期間が短い分その把握もしやすくなっているはずだ。こうした観点で考えると、富裕な高齢者は、相当に大きなリスクを取っても生活の心配がない。たとえば、自分のライアビリティに対して、年金収入で十分対応できる計算が立てば、金融資産の投資にあって、リスクテイクを遠慮する必要はない。
(3)総合的に考えると
個人の資産運用を考える場合、自分の「人的資本」や「ライアビリティ」のことを頭の片隅に置いておくと、見通しが良くなる。
ライアビリティ(負債)の反対概念はアセット(資産)だ。金融機関の経営では、アセット・ライアビリティ・マネジメント(一般に「ALM」と呼ばれる)と呼ばれる考え方があって、資金の調達金利と貸し出し・運用の期間や金利のミスマッチによって生じるリスクを総合的に管理することが行われている。個人の場合には、銀行の経営のように神経質になる必要はないが、自分のライアビリティに対して、自分のアセットを構成する人的資本と資産(金融資産と実物資産の両方)がどの程度の余裕を持っているかという意識は持っておくといいだろう。
若い人は人的資本がおおむね潤沢だから金融資産でリスクを取ることができる場合が多いし、高齢者は持っている資産の割にライアビリティが小さいから同じくリスクを取ることができる場合が多い。
もちろん、個人差があるのだが、精神的に悔しいといったことを除くと、たとえば、当座の生活資金を確保した上で、残りをあらかた内外の株式に投資してしまっても、これが生活に決定的に大きく影響して大変だというケースは案外少ないのではないだろうか。
【コメント】
15年前に書いた記事だ。もちろん筆者のオリジナルではないが、「人的資本」に注目しているのはいいことだ。
当時の筆者はまだ機関投資家の特に年金運用の考え方に影響されている。年金ALMだとライアビリティ(負債)サイドの問題もあるはずだと思いながら、記事を書いている。
その後、個人の場合、資産サイドにも負債サイドにも大きな柔軟性があり、年金基金の運用の場合のようにリスク資産への配分を「比率」で考えるのではなく、「金額」で決めた方が適切であることに気づくようになったが、この時点では、そこまで考えを整理できていない。(2023年12月5日 山崎元)
(山崎 元)
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