第二次世界大戦、日本にも響いた独ソ戦の要諦 ソ連という巨大な岩塊は流れを転回させた

東洋経済オンライン / 2019年9月18日 8時10分

一方、ソ連の赤い独裁者スターリンも、大戦の影に怯えていた。これまで、ソ連は、フランスやチェコスロヴァキアとともに集団安全保障態勢を構築してきた。ところが、当事者であるチェコスロヴァキアの頭越しに英仏伊がドイツと交渉したばかりか、ソ連を無視したとあっては、もはや集団安全保障に頼ることはできなかった。スターリンは、英仏がドイツにチェコスロヴァキアを譲り渡した背景には、ヒトラーをソ連にけしかける意図があると理解したのだ。

ならば、相手がヒトラーであろうとも、その好意を取りつけ、ドイツの攻撃がロシアに向かないようにしなければならない。スターリンは決断を下した。彼が発したシグナルは、慎重ではあったが、同時に明瞭なものであった。

1939年3月、第18回ソ連共産党大会においてスターリンが行った演説は、重大な変化を含んでいた。従来、スターリンは資本主義国家のすべてを激しく非難していたのに、このとき攻撃されたのは英仏だけだった。さらに、およそ2カ月後に、スターリンはリトヴィノフ外務人民委員(他国の外務大臣に当たる)を更迭、モロトフに代えた。リトヴィノフは、英仏を含めた集団安全保障を通じてドイツを封じこめる政策を進めてきた人物だったから、この人事の意味するところは明らかである。

5月20日、新任のモロトフ外務人民委員と初めて会見し、独ソ経済交渉について議論したドイツの駐ソ大使は、 同交渉は政治的基盤がつくられた際にようやく再開され得るという、含みのある言葉を告げられた。一方、ベルリンでも、ドイツ外務省の東欧局長と駐独ソ連代理大使の間で、政治面での関係改善が論じられだしている。

スターリンは、不倶戴天の敵ヒトラーと結んででも、大戦の局外にとどまることを選んだのである。一方のヒトラーにとっても、日本に代えてソ連との関係を深め、英仏の牽制に当てるというのは魅力的な策であった。

8月12日、駐独ソ連代理大使は、ソ連側は独ソ協議に関心を抱いており、会議の場所はモスクワを希望していると、ドイツ側に申し入れた。ヒトラーは、ただちにリッベントロップ外務大臣に全権を託して、ロシアに派遣すると決定した。同月23日にモスクワに到着したリッベントロップは、すぐにモロトフと交渉を開始し、24日午前2時に(条約の日付は23日)、両国の国境の不可侵ならびに、第3国と交戦に突入した場合には他の締約国は中立を守ることとした条約に調印する。有名な独ソ不可侵条約である。この条約には、秘密議定書が付属しており、東欧における独ソの勢力圏を定めていた。

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