第二次世界大戦、日本にも響いた独ソ戦の要諦 ソ連という巨大な岩塊は流れを転回させた

東洋経済オンライン / 2019年9月18日 8時10分

ゆえに、独ソ開戦を伝える最初の情報(1941年6月5日に、大島浩駐独大使が報告してきた)を得て以来、東京では、対ソ政策を巡って、激しい議論が交わされることになる。松岡洋右外務大臣は、4月に日ソ中立条約を締結したばかりであるにもかかわらず、即時対ソ参戦を主張した。対ソ戦に引き込まれることを警戒する海軍は、独ソ戦への介入反対を唱える。陸軍に至っては、南進論、北進論、南北準備論(対ソ、対英のいずれにも開戦することなく、南北両面に対応できるよう戦力を強化すべしとの主張)に分かれ、内部でも対立する始末であった。

しかし、陸海軍首脳部は妥協にこぎつけることができ、南北準備陣を進め、好機が到来した場合にのみ独ソ戦に介入するという「帝国国策要綱」を作成する。これは、7月2日の御前会議で裁可された。世にいう「熟柿(じゅくし)主義」、柿が熟れて落ちるのを待つのにたとえ、労せずして成果を得んとする方針である。その実は機会主義にほかならない。

■北進の幻

事実、この「帝国国策要綱」は、不介入を原則としていたものの、独ソ戦が日本に有利に進んだ場合には、武力を行使して「北方問題」を解決するため、ひそかに対ソ戦力を準備すると定めていた。つまり、対独戦に兵力を引き抜かれ、極東ソ連軍が弱体化したときには、対ソ戦に突入するとの含みだ。そのための戦力を整えるべく、1941年7月5日、東條英機陸軍大臣は、「関東軍特種演習」と称される動員計画を承認した。大動員により、対ソ戦にあたる予定の関東軍を兵力70万以上に増強しようというのである。

こうして、ソ連と「満洲国」の国境には、一触即発の空気がみなぎった。陸軍のなかには、ノモンハン以来の守勢から転じて、ついに対ソ戦を断行する好機が来たとはやりたつ者も少なくなかった。その急先鋒となったのは、陸軍参謀本部作戦部長田中新一少将であり、彼の下には、作戦課長服部卓四郎中佐ならびに作戦班長辻政信中佐という名うての好戦派がいた。

けれども、彼らの「期待」が満たされることはなかった。陸軍参謀本部が開戦の前提条件としたのは、極東ソ連軍の兵力が半減することであった。ところが、極東ソ連軍は、一向に減少する兆しを見せない。一説には、ソ連軍は、極東の精鋭部隊を対独戦に引き抜いたあとに新編部隊を補充する、あるいは、部隊としてはソ満国境にいるのだが、古参の下士官兵や装備のみを抽出し、代わりに新兵や旧式兵器を配備するといった形で、額面上の兵力を維持したといわれる。

いずれにせよ、拙著でも詳述したように、1941年7月後半にはドイツ軍の進撃は鈍り、ソ連の急速な崩壊など考えにくい情勢になってきた。また、日米関係も急激に悪化していたから、北方に剣をかざしたままでいることは、いよいよ困難である。

8月9日、陸軍参謀本部は、ついに年内は対ソ武力行使を実施しないと決定した。とはいえ、「関東軍特種演習」で準備された兵力装備は、やがて太平洋戦争初期段階の南方作戦に転用されていくことになる。1941年に日ソ戦争は起こらなかったが、そこでのソ連の行動は、極東、さらには太平洋での第二次世界大戦の展開に大きな影響を与えていたのである。

大木 毅:著述家

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