ハンセン病隔離政策で苦しんだ「孤島・長島」の今 「人権の島」を生きた人々の数奇な人生

東洋経済オンライン / 2019年10月17日 8時10分

瀬戸内海に浮かぶ長島とそれをつなぐ邑久長島大橋(写真:Sunrise / PIXTA)

人間回復の橋――。それは、岡山県瀬戸内市長島にかかる30メートルほどの「邑久(おく)長島大橋」のことを指す。岡山市から40キロに位置し周囲約16キロメートルの長島は、ハンセン病の国立療養所として90年近い歴史を刻んできた。

”人権の島”とも呼ばれる長島。“希望の橋”が架かったのは今から31年前だ。これは瀬戸内海に面する孤島が、実に58年間も隔離が続いてきたことも意味する。

かつて、国立ハンセン病療養所・長島愛生園内に県立邑久高校新良田(にいらだ)教室という4年制の定時制の高校があった。新良田教室は、国立ハンセン病療養所内で唯一設置された高校だ。1955年の開校から1987年の閉校まで、全国からハンセン病の若者が集まり、その間307人の生徒が巣立っていった。

■新良田教室教師の自責の念

新良田教室は、ハンセン病療養中の学生たちにとってわずかな希望でもあった。当時、ハンセン病を発症した子どもたちは、進学への道が絶たれていたからだ。同高を卒業し、完治することで大学や短大・専門学校への進学が公的に認められた。

卒業生の中には、医師・作家・教師・看護師・実業家やデザイナーなど幅広い分野で優秀な人材を輩出した。

新良田教室で1970~1975年まで5年間にわたり英語教師として教員を務めた山下順三氏(78)は、教員を退職した後もハンセン病の啓発活動に勤しんでいる。

山下氏は、自身の回顧録を基にした自主映画も現在制作しているという。山下氏をつき動かすのは、今なお残る自責の念だ。

「当時の教員たちは、厚生省・県・医療機関と学校との板挟みでした。生徒たちには全身の消毒が義務づけられ、職員室の前のベルを鳴らすことで、初めて職員室への入室が許可されました。ある日、生徒の1人から言われました。『先生、私たちが職員室に入るときにベルを鳴らさないといけないという行為自体が、偏見と差別じゃないんですか。もう私たちは職員室に行くのが嫌なんです』と。生徒の気持ちは痛いほどわかっていましたが、教員たちは何もできない。それが現実でした。

ハンセン病は伝染しないことがわかっていても、変えられなかった。この日常をいつまで続けないといけないのか、という自分自身や国への嫌悪そして当時の記憶は消えません。ハンセン病への認識が転換期を迎えている今だからこそ、新良田教室という存在を風化させてはいけないと考えるようになったんです」

長島に生きた人々は、時代を重ねた現在でもハンセン病への認識があまり変わっていないと話す人も少なくない。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング