ハンセン病隔離政策で苦しんだ「孤島・長島」の今 「人権の島」を生きた人々の数奇な人生

東洋経済オンライン / 2019年10月17日 8時10分

1998年にはハンセン病政策による人権侵害を訴える「らい予防法違憲国家賠償訴訟」で原告13人が熊本地裁に提訴した。2001年に原告勝訴の判決が下され、国は控訴しなかった。もっとも、訴訟までの流れは決してスムーズではない。

「語り継ぐハンセン病―瀬戸内3園から」(山陽新聞社刊)には、当時についてこんな証言が記されている。

「1億円という請求額もあり、みんな警戒していた」と当時の自治副会長山本英郎は園内(邑久光明園)の雰囲気を語る。「金目当てと思われるかもしれんから。かなり勇気はいった」と竹内(原告・竹内栄一(故人))の妻貴美子(87)は言う。「でも生きているうちに差別や偏見をなくしたい。夫の望みはそれだけやった」

■ハンセン病家族訴訟での補償も行われる見通し

小泉純一郎首相(当時)が控訴を行わなかったことで、国に約18億2000万円の損害賠償を命じることで判決は確定した。

2019年7月には、隔離政策でハンセン病患者本人だけでなく、家族も差別を受けたことを認め、国に対して元患者の家族541人に計約3億7600万円の損害賠償を命じた熊本地裁判決について、国が控訴を見送った。ハンセン病を取り巻く政府の対応というのは、決して忘れてはならない歴史だ。敗訴が確定した国に対し、今年10月から始まった臨時国会で、超党派の議員らが家族への補償と差別解消を盛りこんだ救済法案の成立を目指している。

本稿の舞台である長島は、1930年に長島愛生園を開園し、東京や沖縄といった他県から多くのハンセン病患者を受け入れてきた。冒頭の新良田教室は、そんな長島内にあった邑久高校の中にある特別教室として、全国でも唯一無二の存在だった。

1987年の閉校までの間で、多くの問題が浮き彫りになっている。例えば社会の理解が得られないという理由で、修学旅行は1975年まで行われていない。

冒頭で述べたように、新良田教室の在校生たちはハンセン病患者にとっての全国で唯一の高等学校だった。

どんな思いで、上記のような状況で学んでいたのだろうか。教員たちは、繊細な心の機微を感じることもあったという。当時の様子を山下氏が述懐する。

「生徒たちは勉強熱心で、極めて高い学力水準でした。スポーツに熱心に取り組む生徒も多かった。中には入所歴を隠した生徒も少なくありませんでした。頭の中では、他の感染症と同じ身近な病気であると理解している教員がほとんどでした。

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