なぜ軽井沢だけが「高級リゾート」になれたのか 外国人が着目、鉄道網の整備で差がついた

東洋経済オンライン / 2019年11月17日 7時25分

しなの鉄道の軽井沢駅・旧駅舎口は、かつての軽井沢駅舎を再現した外観だ(筆者撮影)

10月11日から13日にかけて日本列島を襲った台風19号により、各地で水害が発生した。

台風襲来に対し、鉄道各社は計画運休を実施するなどして被害を最小限に食い止めようと努めたが、長野市の新幹線車両センターが浸水。北陸新幹線の10編成120両が被災した。同新幹線は長野駅以北が不通になったものの、25日には全線で運転を再開。本年度末に完全復旧を目指すとしている。

北陸新幹線の不通、そして減便は、富山県や石川県に大きな打撃を与えた。とくに、観光面での経済的損失は計り知れない。同じく観光地としてにぎわう軽井沢も、その影響を無視できない。

軽井沢駅は高崎駅から2駅目で、台風19号で浸水した車両センターより東京寄りにある。そのため、運行の再開は早かった。また、避暑地・軽井沢の最盛期である夏季ではなかったことも、富山、金沢と比べて観光に与える影響を小さく見積もられがちな要因にある。

■避暑地から年間を通じた観光地に

しかし、近年の軽井沢は年間を通じて観光客が訪れるようになっており、一昔前の避暑地のイメージでは語れない。年間を通じて軽井沢が観光客でにぎわうのは、外国人観光客によるところが大きい。とはいえ、以前から春は新緑、秋は紅葉、冬はスキーといった具合に、国内旅行者も年間を通じて軽井沢を訪れるようになっていた。

そうした軽井沢の観光を語るうえで、外国人と鉄道という2つの要素を欠かすことはできない。

軽井沢は江戸時代から中山道の宿場町としてにぎわった。長野県と群馬県の境にある碓氷峠は、全国に名をとどろかせる難所として知られる。そのため、碓氷峠の東西両端には峠越えに備える旅人のために宿場町が設けられた。

西側に設けられた宿場町は、軽井沢宿だけではなかった。沓掛宿・追分宿といった宿場町も開設された。これらの宿場町は浅間三宿と呼ばれ、それぞれが宿場町として切磋琢磨した。

鎖国が解かれた頃から外国人、主にお雇い外国人たちが避暑地として軽井沢に着目。近隣に草津温泉があることも奏功し、軽井沢は静養地として評価を高める。そして、外国人たちが別荘を建てていく。

しかし、それは一部の外国人たちの話にすぎない。当時、まだ信越本線は全通していなかった。上野駅から高崎駅までが開業するのは1884年、高崎駅から碓氷峠の東端である横川駅まで開業するのは1885年。横川駅と軽井沢駅との間に鉄道が走り始めるのは1893年まで待たなければならない。

鉄道が開業した後も碓氷峠が難所であることは変わらず、横川―軽井沢間は急勾配を克服するために歯車と歯形のレールをかみ合わせて登る「アプト式」を採用した。途中に熊ノ平信号場(後に駅に昇格)での約5分間の給水作業を含め、軽井沢駅―横川駅間は1時間15分を要した。

明治前期は鉄道網が充実していなかったことから、軽井沢は突出した避暑地ではなかった。しかし、鉄道網の整備によって軽井沢はしだいに名声を高め、近隣の宿場町だった沓掛や信濃追分との差を広げていく。そして、それは時代を経るごとに広がり、軽井沢はほかの街を飲み込んでいった。

1910年に開業した沓掛駅は、1956年に中軽井沢駅へと改称。信濃追分駅も西軽井沢駅へと改称する提案がなされた。信濃追分駅は地元の反対で改称することはなかったが、年を追うごとに軽井沢ブランドは強まり、周辺は「軽井沢化」した。

■政界の大物も愛した軽井沢

碓氷峠における鉄道建設では、お雇い外国人のチャールズ・アセトン・ワットリー・ポーナルが活躍した。軽井沢駅―横川駅間の建設技師長を務めたポーナルは、まだ未熟だった日本製のレンガを用いて鉄道橋を架橋。日本人技師・本間英一郎とともに軽井沢への道を切り開いた。

東京からアクセスが容易になったことで、軽井沢には政府要人の別荘が建てられていった。また、皇族も別荘を建設。1910年に洋風建築の新駅舎が竣工されると、軽井沢駅舎内には貴賓室が設けられた。

各国の大使館も出張所を置くようになり、昭和に入る頃には「夏になると外務省が軽井沢に移る」とまで言われるほどに外国人で活況を呈した。

避暑地・軽井沢を愛した政府要人は多いが、その中でも代表的な人物を挙げるとすれば、公爵で後に首相を歴任した近衛文麿だろう。

父親の近衛篤麿は貴族院議長や学習院院長などを務めた名士だったため、文麿にかけられた期待は大きかった。公爵だったこともあり、1916年に満25歳に達した時点で近衛文麿は自動的に貴族院議員に就任。以降、忙しく政務をこなすことになる。

全国を駆け回る文麿は、東京・荻窪の荻外荘や京都・嵐山の松籟庵をはじめ神奈川県鎌倉・古我邸や千葉県の我孫子など、全国各地に別邸を所有した。文麿は別邸の購入と売却を繰り返しているので、年代によって滞在地と時間には濃淡がある。

近衛邸は、軽井沢発展の立役者とされる野沢源次郎から1926年に購入。文麿の軽井沢滞在は日数的に長いわけではない。それでも政務の合間を縫うようにして、上野から列車で軽井沢へと向かった。軽井沢に別邸を所有していたのは首相就任前だから、まだスケジュールに余裕があったのかもしれない。

上野駅には、文麿のために待合室が用意され、列車を待つ間は駅長が接遇することが暗黙の決まりになっていた。また、一般客と混乗することはセキュリティー上に問題があるため、特別車が連結された。文麿は特別な対応をしてくれる上野駅職員にも気を配り、上野駅を利用する際には付け届けを欠かさなかった。

文麿が乗車する特別車には、軽井沢に別邸を所有するなじみの政治家や大使館員なども同乗することができた。しかし、車中では文麿の話し相手を務めなければならない。また大物議員が帯同することが多いため、和やかな鉄道旅行にはならず、同行者は緊張を要したという。

■歴代首相が別邸を構える

軽井沢には、近衛文麿のほかにも大隈重信や重光葵、終戦工作に奔走した外務大臣の東郷茂徳といった政治史に名を残す重要人物が別邸を構えた。保守合同を成し遂げて自民党を創設し、初代総裁についた鳩山一郎も軽井沢を語るうえで欠かせない政治家の1人だ。

鳩山が自民党を結党したのは1955年だが、鳩山は戦前から軽井沢に別邸を構えた。すでに、この頃から鳩山は政界の実力者だったため、軽井沢の別邸には鳩山を訪ねる政治家が絶えなかった。もちろん、東京から軽井沢へ向かう政治家たちは鉄道を利用した。

戦後の軽井沢は、永田町さながらに政治家が集まる隠れ家として機能した。軽井沢に別邸を構えた政治家は、佐藤栄作・田中角栄・三木武夫・大平正芳・中曽根康弘・宮澤喜一といった歴代の首相が並ぶ。

国を動かす為政者が集まれば、そこには多くの人が通い、集まる。戦後も、東京と軽井沢を走る列車には自然と政治的な使命を帯びた人たちが多く乗車することになった。

軽井沢は政治家たちに愛されたが、日本人の別荘が増える端緒を切り開いたのも政治家だった。初めて別荘を構えた日本人は、福井選出の衆議院議員・八田裕次郎だった。八田は1893年に別荘を構え、それが日本人にも別荘を持つという概念を芽生えさせた。

大手ゼネコンの鹿島を創立した鹿島岩蔵は、そうした新しいトレンドを察知。1898年頃より、日本人向けに貸別荘業を開始した。鹿島に遅れて、三井財閥も軽井沢の別荘開発に参入。軽井沢の別荘地ブームは、こうして勢いを増す。

現在の軽井沢駅一帯は、西武グループの商業施設やホテルが立ち並んでいる。これは西武鉄道の親会社的なポジションにあったコクドによって大規模開発が進められたことに起因している。西武の総帥である堤康次郎は持ち前のバイタリティーを発揮し、軽井沢を避暑地から総合リゾート地へと押し上げた。

西武・堤は軽井沢の開拓史に輝かしい功績を残したが、堤の軽井沢開拓は後発だった。軽井沢開拓における功績者は先述した野沢源次郎を抜きに語れないが、野沢は鉄道との関係が薄いので、ここでは触れない。

■鉄道界の重鎮たちも虜に

堤よりも早い時期から軽井沢開拓を始めた鉄道人といえば、中央線の前身である甲武鉄道の創業者・雨宮敬次郎を挙げないわけにはいかない。

雨宮は、軽井沢に鉄道を通そうとしたわけではない。有望な開墾地、つまり農園として可能性を見出していた。

それまで雨宮は、農園を開くにあたって富士山麓か軽井沢かで迷っていた。雨宮は政府が建設する東京―大阪間の鉄道が東海道経由で建設されるなら富士山麓、中山道経由で建設されるなら軽井沢に農園を開くことに決めていた。そして、政府が中山道経由で鉄道建設を進めると聞きつけたため、私財を投じて軽井沢の土地を買収し、農園経営に乗り出した。

軽井沢開発史には、東武鉄道の総帥・根津嘉一郎も登場する。根津も鉄道を計画していたわけではなく、武蔵高等学校(現・武蔵大学)の夏期講習のための施設、いわば合宿所を造成しようと考えていた。

軽井沢は雨宮や根津、堤といった私鉄経営者ばかりではなく、鉄道官庁の重鎮たちも魅了している。

1908年、鉄道院副総裁の平井晴二郎が野村龍太郎などを伴って軽井沢を訪問した。野村は後に満鉄総裁や南武鉄道(現・JR南武線)・湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の社長を歴任した人物でもある。

平井と野村が信濃追分を訪れた理由は、信号場を設置するための現地視察だった。平井と野村はすぐに軽井沢の虜になった。そして、現地の旅館経営者から懇願されたこともあって、信濃追分の信号場は夏季のみ臨時駅として活用することになった。

臨時駅ながらも、信濃追分駅は多くの避暑客が利用するようになる。後に鉄道院副総裁を務める長谷川謹介も、それまで軽井沢駅界隈に宿泊していたが、信濃追分駅が開設されると、定宿を同駅の近くへと変更している。

鉄道官庁のお偉いさんが軽井沢に集まれば、それに伴って鉄道建設請負業者たちも集まってくる。昭和に入ると前田栄次郎が率いる前田建設工業が軽井沢の別荘地開発に参入。前田郷と呼ばれる貸別荘地を造成した。前田建設工業は主に鉄道建設を請け負うゼネコンだったことから、親睦を図る意味もあり、当初の前田郷の貸別荘は鉄道建設業者だけに利用を制限していた。

こうして信越本線によって、軽井沢は避暑地・別荘地として大きく発展を遂げた。しかし、軽井沢の鉄道を語るうえで忘れてはならない鉄道がもう1つある。それが草津軽便鉄道(のちの草軽電気鉄道)だ。軽井沢が、ほかの避暑地とは比べものにならないほど絶大な人気を博したのは、一大温泉地・草津が近くにあったことも大きな要因といえる。

軽井沢と草津とを結ぶ草津軽便鉄道は、1915年に開業。草津軽便鉄道は急勾配・難所が多かったため、新軽井沢駅―草津温泉駅間は約55.5kmで、約3時間を要した。その距離に比して所要時間はかなり長く、使い勝手は決していいとは言えなかった。

そうした事情から、道路整備が進んだ1950年代に廃止論が浮上。台風による橋梁流出も重なって1962年に全線が廃止された。

■新幹線開業でさらに東京に近く

国鉄は戦後、輸送力と時間短縮のボトルネックになっていた横川―軽井沢間のアプト式解消に乗り出した。路線改良は1963年に完成し、1966年には複線化。横川駅―軽井沢駅間の所要時間は約18分にまで短縮し、首都圏と軽井沢の距離が一気に近づいた。

だが高度経済成長期、モータリゼーションの進展で軽井沢・草津一帯は自動車があふれた。自動車専用道や高速道路も開通し、従来の鉄道は次第に太刀打ちできなくなった。お荷物と化した軽井沢駅―横川駅間は、1997年の長野新幹線開業と同時に廃止。信越本線の軽井沢駅―篠ノ井駅間は第三セクターのしなの鉄道へ移管された。

在来線の廃止や第三セクターへの移行は、地元民に不便をもたらした。それでも観光地・軽井沢の魅力は色褪せない。新幹線開業により、多くの観光客が軽井沢を訪れるようになっている。

小川 裕夫:フリーランスライター

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