都心の中央線、なぜ直線でなく「S字」を描くのか 鉄道建設には江戸城外濠の「遺産」が役立った

東洋経済オンライン / 2020年3月25日 7時35分

山手線の内側を走る中央線の沿線は変化に富んでいる。写真は外濠沿いの市ケ谷―飯田橋間(筆者撮影)

新宿から山手線の内側を横断する形で東京へと走る中央線。山手線の内側に敷かれた地上の鉄道は、路面電車や短区間の私鉄を除けば、なぜかこの中央線だけである。背景には歴史的、地形的理由がある。

■短区間で変化に富む車窓

沿線の車窓は、その地形のおかげで変化に富んでいる。四ツ谷駅付近で突然現れるトンネル、桜並木が続く市ケ谷駅付近の外濠、急カーブのせいで電車とホームの間が恐ろしいほどあいている飯田橋駅ホーム、深い渓谷の中にある御茶ノ水駅ホームなど……。

この区間の地形の最大の特徴は、江戸時代、徳川幕府によって大きく改造されていることである。極端にいえば、江戸の町造りとしての大土木工事が行われていなければ、山手線内唯一の鉄道である中央線は、建設できなかったかもしれないのである。

まずは都心付近の中央線の歴史を押さえておこう。第1のポイントは、甲武鉄道という私鉄会社による開業ということである。東海道本線が官営鉄道なのに対し、中央線や山手線(品川―新宿―田端)は、私鉄会社によるものだった。

甲武鉄道は、1889(明治22)年4月に新宿から西の郊外に向かって立川まで開業し、同年8月八王子まで延伸する。次に新宿から東の都心方向へ向けての建設を計画する。

当初のルート策定の際、陸軍が望んでいた小石川砲兵工廠(現在の水道橋駅北側、東京ドーム付近一帯にあった兵器工場)へと延びる線路なら鉄道敷設の許可を得やすいと考えた。新宿から北東へ向かい(現路線は南東へ向かっている)、その後、曙橋へと南下して市ケ谷へ出る案を計画した。

確かに土地の凸凹を考慮する限りでは、このコース取りがベストと思われる。市ケ谷から先は現在の中央線のルートと同じものである。

だがこのルートだと、立川方面から来た場合、新宿駅でスイッチバックする形になるので機関車の付け換えが必要となる。また線路用地買収に取りかかると、沿線住民の猛烈な反対に遭ってしまった。

■陸軍や宮内省が難色

その後現在の中央線のルートに近い案を策定したが、それも難題が山積みだった。陸軍青山練兵場(現・明治神宮外苑)の土地を狭くしてしまうと、陸軍から横やりが入った。これは代替の土地を差し出すことで何とか解決がついたが、その先へ進むと赤坂離宮(現・迎賓館、赤坂御用地)のある丘が立ちはだかる。

線路が赤坂離宮の土地を通ることについては、宮内省の承諾がどうしても得られなかった。赤坂離宮の下をトンネルで通過し地上の鉄道用地は不要という現在のコースは、窮余の一策で生まれたものだった。

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