26歳で逝った五輪選手を戦争に駆り立てたもの 1940年「幻の東京大会」五輪は一体誰のものか

東洋経済オンライン / 2020年7月28日 9時50分

1936年ベルリン五輪に出場、「幻の東京五輪」への出場はかなわず、戦地に赴いた鈴木聞多選手(写真:鈴木隆之さん提供、以下同)

誰がこんな東京の光景を想像しただろうか。7月24日、本来なら世界中からの観光客が街にあふれ、56年ぶり、2度目となる東京オリンピックの開会式が華々しく行われるはずだった。しかし、猛威を振るう新型コロナウイルスによって、年間3200万人(2019年)に上るインバウンドは激減、国際都市・東京から外国人の姿は消え、人々はマスクで顔を覆い黙々と街路を歩いている。

東京オリンピックは1年後の夏に延期されたが、今や「中止すべきだ」という声が開催を求める声と拮抗するようになり、本当にオリンピックはできるのか、やるべきなのか疑問の声が上がり始めている。オリンピック放送を準備してきたスポーツ番組プロデューサーである私自身、先の見えない不安に押しつぶされそうになっている。

■失意の中で練習を続けるアスリートたち

しかし、それ以上に衝撃を受けているのが、人生のすべてをオリンピックに懸けてきたアスリートたちだろう。その失意は想像を絶する。金メダル最有力と目されている競泳の瀬戸大也選手は、今の自分を「喪失感で抜け殻になりました」とSNS上で吐露し、開催の行方さえ見えないオリンピックのために練習を続けなければならない苦しみを訴えている。

オリンピック開催の危機にある東京。ここで、かつてオリンピックが中止になり、失意のどん底に落とされたアスリートたちがいたことをご存じだろうか。

1940年(昭和15年)、アジアで初めてのオリンピックが東京で行われるはずだった。

ところが、1937年に盧溝橋事件が勃発、日中戦争の戦火が拡大の一途をたどると、あっという間に戦時色が強まっていく。男子学生の長髪や女性のパーマなどはやめさせられ、ダンスホールの閉鎖、奢侈贅沢品の販売禁止、国民服の着用など、庶民の暮らしは息苦しいものになった。

そんな中で浮上してきたのが、オリンピック返上論である。「国家の一大事にスポーツにうつつを抜かしている場合か」「この事業のために国の予算がどれだけ浪費されるのか」という声が大きくなり、内閣書記官長(現在の官房長官に当たる)の「時局によってオリンピックの開催は困難」という発言が飛び出し、翌1938年7月、東京オリンピックは中止となる。

アスリートたちの夢は打ち砕かれた。その後、他府県間の移動を伴うスポーツ大会は原則禁止され、毎年甲子園で行われる全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)も中止となった。スポーツをする若者たちからスポーツをする場所と時間が奪われたのである。

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