「学術会議問題」致命的に見落とされている視点 政治に調達されるネット空間、議論できない国

東洋経済オンライン / 2020年10月15日 19時0分

おそらく、他の研究者との公平性等に鑑みても、ある一定の政治的意図をもって6名を拒否したことは間違いないだろう。この点は、法律家の私としては、どこまでいっても憶測の域を出ないため多言は控えるが、政治的意図については、当然総理大臣の政治的責任が表裏一体で張り付いているという点が最大の重要ポイントだ。菅首相は、今回の任命拒否について、国民に対して理由を含めて説明しなければならない。「総合的俯瞰的」というのは、判断の「態様」であって「理由」ではなく、説明になっていない。

特に、内閣を頂点とした官僚機構において、政権にとって好ましいか否かのみに基づく人事権の行使を背景にその権力基盤を強化すること自体、権力行使の節度(制度ではない“柔らかいガードレール”)として望ましいものではない。

■支持率70%は説明責任の有無とは別問題

ここで、たとえ説明責任を果たしてないとしても、その結果、70%の支持率を維持していることを民主主義の観点からは受け入れざるをえないのが民主主義たるゆえんである。権力者のふるまいが、今度はそっくりそのままわれわれ市民社会がどう受け止めるかに跳ね返ってくる。この国から消失しつつある「政治的責任」というワードに息吹を入れるのもまた、民主主義の「主役」であるわれわれ1人ひとりの責任である。

つまり、この第1フェーズの政治的意図の問題は、政治的責任の問題であり、民主主義の問題である。

(2)法律論的問題

第2フェーズは、法律論的な問題である。この土俵で初めて、学問の自由や、日本学術会議法の解釈の話になる。

今回、学術会議が憲法の学問の自由(23条)の主体かのような議論も見受けられるが、「内閣総理大臣の所轄」(法1条2項)に属し、政府の「諮問」機関(法4条)たる学術会議にストレートに適用があるかと言われれば、疑問であろう。学問の自由は一次的には大学に属する研究者の自由を保障しており、その実質化のため、制度的保障として「大学の自治」が認められる。いくら学問研究が反政権的であろうが、法律=時の多数派によっても大学および大学人の知的探求への公権力の介入は許されない。

歴史的に見ても、憲法が権力の前にあえて表現の自由とは別に学問の自由という規定で「大きなバリア」を立てたのは、「大学」そのもののはずである。つまり、大学人で構成する国の諮問機関たる学術会議は、憲法に言う学問の自由とはワンステップ遠くにいるのである。法律によっても絶対に奪えない何かが学術会議それ自体に存在するかどうかは、大学そのものとは別次元であるという感覚はご理解いただけるのではないか。

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