「学術会議問題」致命的に見落とされている視点 政治に調達されるネット空間、議論できない国

東洋経済オンライン / 2020年10月15日 19時0分

今回も、おそらく権力にはある種批判的であり続けた西田亮介氏(東京工業大学准教授)が、学問の自由の大切さは前提にしながら学術会議の在り方への批判的投稿をしたことに際して、「自称リベラル」かつ「反政権」の陣営が苛烈な批判的発信を浴びせたという一幕があった。

そこには、「反政権なら今回の学術会議問題について学術会議を批判するようなことはNG」といった固定的・記号的な公式が存在し、この公式から逸脱すれば、たちまち攻撃対象とされてしまう。筆者も、前述の元日弁連会長の法の無理解についてツイートしたところ、政権支持と思われる方々から、膨大な「いいね」と「見直した」等のエールをいただいた。

これも、「元日弁連会長=反政権→これを批判することは政権支持サイド」という方程式から、たくさんの「いいね」がついたのだろう。

しかし、そこに本質はない。問題は上記4つの問題についての視座であり、これを左右、政権・反政権は関係なく知恵を出して解決することである。

■ネット言論空間では問題の本質や熟議は担保されない

ネット言論空間では、特に140文字の制限付きでは、物事の本質よりも、コストをかけずに人を「あっち」か「こっち」かにラベリングする機能しか果たされず、およそ問題の本質や、熟議は担保されない。

冒頭に記した通り、この陣営のどちらかに所属すれば、相手からの批難に対しても、過激な「集団的自衛権」の行使によって共闘してくれる人々がたくさんいると“思い込める”ので、「楽」なのである。ネットでは、自分寄りの言説がアルゴリズムによって再生産される性質も相まって、人々はまるで大勢がそう思っているかのような幻想とともに小さくて心地よい蛸壺やフィルターバブルに自分から入っていく。

この構図を、そのまま政治権力が利用する。野党は、国会で「学問の自由違反」といった批判に徹し、制度論的な本質的問題には踏み込まない。

なぜ踏み込まないかと言えば、踏み込まずに批判しているポーズを大きく見せたほうが限られたごく一部の「上顧客」からの熱い応援が得られるとともに、「上顧客」としてもネット上での「発散」が政治運動やムーブメントに結実したという刹那的な満足感を得られるという、相互補完的、相互依存的な関係が成立してしまっているからである。

ネット言論空間はさまざまな可能性を持ち、実際ネット空間のほうが明らかに多様な情報を時間と場所に関係なく摂取することができる。しかし、上記のとおり、過激で極端な意見のほうが耳目を集めるため、そのような少数の言説が「過剰に」代表されて言論空間を充満させることで、「過少に」代表されている多くの無関心層が加速度的にネット言論空間、ひいては政治的言論空間から静かに退出する。

■二項対立から一歩離れて多元的・多角的分析を

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