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大政奉還も実は緻密な戦略「徳川慶喜」驚く突破力 倒幕に動く薩長を困らせた「先手先手の対応」

東洋経済オンライン / 2021年6月20日 9時0分

このとき慶喜が注視していたのはただ一点、薩長の動きである。慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日の14日に、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出している。

後藤が幕府に建白書を提出したのが10月3日であることを考えると、かなりのスピード感である。老中や在京諸藩の重臣に通告したときも、慶喜の勢いに気圧されて、その場では真正面から反論した者がいなかったというから、相当な決意をもって断行したことがわかる。

さらに慶喜が朝廷に強く求めたため、その翌日の15日には受理されている。朝廷にすれば、望んでもいない政権を無理やり渡された格好だが、慶喜は急いでいた。実際のところ、もしこの決断が一日でも遅れていたら、状況は大きく変わっていただろう。

慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した10月14日に、薩摩藩の大久保利通と長州藩の広沢兵助らは、公卿の正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)から、徳川慶喜追討の詔書を授かっている。これは岩倉具視の策略であり、朝議も経ていなければ、天皇も認めていない偽勅だったが、それを承知のうえで、薩摩と長州は受け取ったのだ。

これで幕府を討てる――。そんな矢先に、慶喜が政権を朝廷に返してしまった。慶喜は「小松はこの間の消息に通ぜるをもって、ただ今直ちに奉還を奏聞せよと勧めたるものなるべし」と、内戦を避けたいと考えた薩摩藩の小松帯刀から、密かにリークがあったことを明かしている。

慶喜が政権を返上したことで、薩摩は倒幕へと動けなくなった。岩倉具視はといえば、偽勅が発覚してはまずいと、10月21日に密勅を取り消すというバタバタぶりを見せている。周囲にはいかにも拙速に見えた慶喜の大政奉還だが、薩摩の動向を踏まえれば、むしろギリギリのタイミングでの起死回生の一策であった。

■朝廷が何もできないのもシナリオどおり

大政奉還で朝廷に政権を受け取らせることに成功した慶喜。朝廷は政権の主になったが、急にそんなことを言われても、何ができるわけでもない。朝廷はこんなスタンスをとるしかなかった。

「大事は諸大名の会議で決めるが、日常的なことはこれまでどおりにせよ」

これでは、徳川家の勢力も日々の暮らしも何ら変わらない。広大な領地はそのままで、かつ、天皇が持つわずかな料地すらも、これまでどおり徳川が管理することになった。慶喜自身が、日常業務について「すべてこれまでどおりでよいのか」と朝廷に念押しして、10月22日に「これまでどおりでよい」という回答を引き出している。

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