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信頼される男・武田信玄の居城が小さかった理由 「人は石垣、人は城」を実践した賢将

東洋経済オンライン / 2021年9月24日 16時0分

幼名勝千代、天文5(1536)年に元服して晴信と称した。天文10年に父を駿河の今川氏に追放し、家督を継ぐことに成功する。

以降、信濃各地に転戦、雄族村上義清を越後へと走らせた。これを受けた上杉勢が南下、その後の信州川中島の戦いへとつながる。

さらに相模や駿河へも兵を進め、元亀3(1572)年には大軍を西上させ、上洛をくわだてた。三河そして遠江へと進んだ信玄は、三方ケ原の戦いで家康軍を撃破、長篠城へと進撃するが、途中の信州伊那で天正元(1573)年死去する。53歳のことだった。

50年あまりの彼の生涯は、他の戦国武将と同じく東奔西走の日々だったが、注目すべきは、すぐれた人材活用術に加えて、“富国”のための政策だった。

言うまでもなく、大名たちが戦いに勝つためには、農民支配がいちばんの基礎である。安定した領国経営を前提にした総力戦だった。そのために、特色ある領国経営が問われた。

信玄に関して言えば、年貢(税金)を取るという目先の目的に終始しなかった。奪うことのみでは利益は生まれない。奪う前に、まずは与えること、この発想こそが信玄だった。

与えることは回収を予測してのことだが、目先の利にとらわれすぎればその大局を忘れ、与えることの意味さえ定かでなくなる。

“森”を見すぎれば、“木”に注意がいかないこともある。“木”を農民にたとえるなら、一本一本の木々の力が“森”を活性化させる。このことを信玄は知り抜いていた。

■堤防も人も、“すぐに”ではなく“いずれ”

信玄には“信玄袋” “信玄餅”など、その名にまつわるものが少なくない。新田開発のためにつくられた堤防、“信玄堤”もやはりそうだ。

かつて税は力、すなわち労働力だった。“税”の文字にはチカラという意味がある。

このチカラ(労働力地代)とカネ(貨幣地代)の間に位置するのがモノ(生産物地代)で税をまかなった時代だ。

人間の歴史を税の変化から言えば、チカラ→モノ→カネという形で移った。古代→中世→近代がこれに対応する。そして、このモノ(生産物、年貢)を税とした封建社会が、信玄の時代だった。要は農業がすべての基本となる社会だ。富国強兵の基盤だったのである。

「水を治めるモノは天下を制す」とは中国のことわざだが、時は移り、所は変わっても同じことが言える。信玄の卓越さは、この「治水」を領国統治の基本にすえたことだった。

甲斐盆地には、釜無川、笛吹川をはじめ大きな川が流れ、氾濫による被害が重なっていた。そのたびに対症療法がとられたものの、洪水には無策だった。農業経営の不安定さが、領国の経済基盤を弱いものにしていたわけで、これへの取り組みが課題となっていた。

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