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人事に翻弄された菅原道真「学閥出身者」の悲劇 栄光と転落の人生に見える「嫉妬」の影

東洋経済オンライン / 2021年10月8日 16時0分

862年、道真は式部省が実施する文章生試験を史上最年少の18歳でパスして文章生となった。文章生の定員は20人で、その中からさらに成績優秀者が選ばれ文章得業生となる。そうなれば方略試という最高の国家試験の受験資格が認められるのだ。方略試は哲学と文学に関する高度な論文試験だが、これをクリアすれば「官僚」や政治家になる道が開かれる。

867年、道真は23歳で文章得業生となり、870年には26歳で方略試に合格。それを皮切りに昇進を重ね、中央官庁の要職を歴任する。従五位下に叙され、貴族の仲間入りをしたのは30歳の時だ。877年には文章博士(「官僚」養成機関である大学寮の主任教授。現在の東大総長と文部科学大臣を併せたようなポスト)となった。

順風満帆に見えた道真の「官僚」人生だったが、886年、讃岐守(現在で言えば香川県知事)という地方官への転出(出向?)が命じられる。これは道真にとって思いもよらない「人事」だったようだが、彼は地方官を体験することで、中央官庁にいては分からない地方の実情を目の当たりにする。政治の何を改革しなければならないかを肌身で学び取ることができたのはこの期間だ。

887年、道真が中央に返り咲くチャンスが訪れる。この年即位した宇多天皇は功臣の藤原基経を関白に任命したが、宇多の命を受けその辞令を作成した学者の橘広相は「阿衡に任ず」と書いた。阿衡とは関白の中国風の呼び名だ。だが、基経お抱えの学者、藤原佐世が「阿衡は名誉職で実権がない」と入れ知恵したものだから、基経はヘソを曲げ、政務をボイコットするという騒ぎになった。世に言う「阿衡の紛議」だ。

要するにこれは、学者同士の足の引っ張り合いが政治問題に発展した事件だ。道真は讃岐より急遽上京、宇多天皇サイドの橘広相を堂々と弁護するキャンペーンを張った。これにより宇多は道真を俄然注目するようになったのだ。

以後、宇多のもとで道真の累進は目覚ましい。891年には天皇の秘書官トップと言うべき蔵人頭、893年に参議、翌年には遣唐大使(これは結局辞退)、895年、中納言に任ぜられ従三位。897年には権大納言となり右大将を兼任。そして、右大臣に任ぜられたのは899年、道真55歳の時だった。一方の左大臣は基経のむすこの時平、当時29歳だ。

学者から身を起こした道真が大臣にまで出世したのは、基経のような実力者を抑え、政治の刷新に意欲を燃やしていた宇多天皇の計らいにほかならない。宇多は道真だけでなく、その背後にある菅家廊下という一大「学閥」に政治改革の望みを託したのだ。

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