1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

平清盛を隆盛に導いた「壮絶な身内ケンカ」の中身 武士が実権を握る原点となった「保元の乱」

東洋経済オンライン / 2022年1月16日 17時0分

平清盛はどのように勢力を拡大していったのでしょうか(写真:dwph/PIXTA)

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やフジテレビ系列のアニメ『平家物語』の放送が始まり、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。公家社会だった平安時代末期、源氏や平氏といった武士がどのようにのし上がったのか。そのきっかけとなったのが「保元の乱」です。その詳細について歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

■『平家物語』の記述は実にあっさり

平安時代末期の内乱である保元の乱(1156年)は、皇位継承をめぐって崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、摂関家では藤原忠通と頼長の兄弟が激しく対立し、そこに源氏や平氏などの武士が加わった戦いだ。武士の政界進出を促すことになった、日本史の教科書に必ず載っている合戦である。

だが、平氏の栄枯盛衰を描いた『平家物語』における保元の乱の記述は、実にあっさりとしている。それは次のようなものだ(現代語訳は筆者)。

「平忠盛は刑部卿(司法全般を管轄する省庁の長官)に任じられたが、仁平3(1153)年正月15日に、58歳でこの世を去った。嫡男の清盛がその後継者となる。保元元(1156)年7月、宇治の左大臣・藤原頼長が反乱を起こしたとき、安芸守であった清盛は、後白河天皇に味方して戦功を立てた。よって戦後は、播磨守に任命され、保元3(1158)年には、太宰大弐(九州の地方行政機関・太宰府の次官)になったのである」

平忠盛が死去し、いよいよ、その嫡男・清盛が登場してくる場面である。そして「保元元(1156)年7月、宇治の左大臣・藤原頼長が反乱を起こしたとき」というのが、保元の乱のことを指すのだが『平家物語』はサラリと流している。しかし、この戦いで「勝ち組」についたことが、清盛のさらなる躍進の契機となった。

鎌倉時代初期の史論書『愚管抄』(作者は天台宗の僧侶・慈円)は、鳥羽法皇(崇徳上皇と後白河天皇の父)が崩御してすぐに勃発した保元の乱によって、日本国は「武者の世になった」と記している。そうしたことを考えたとき、保元の乱は、清盛の躍進の契機となったのみならず、日本の歴史全体に大きな影響を与えたということになる。

保元の乱に深く関わってくる公卿の藤原頼長は、保安元(1120)年に関白・藤原忠実の第2子として生まれた。17歳のときに、内大臣となるなど、異例の出世は人々が驚くほどであった。学問にも情熱を注ぎ「日本第一の大学生、和漢の才に富む」(『愚管抄』)と評された。

久安5(1149)年に左大臣に任じられ、翌年には養女が近衛天皇に入内するなど得意の日々を送る。父・忠実も頼長を重んじ、長男の忠通から藤氏長者(藤原氏を束ねる代表者)を剥奪し、頼長を氏長者としたのである。

これに対抗するように、兄の忠通も養女を近衛天皇の中宮としたので、兄と弟の対立は先鋭化していく。頼長の政治は厳格で、規律にうるさく、他人に対して峻厳だったので「悪左府」(悪の左大臣)と呼ばれた。この時代の「悪」という言葉は、単なる「悪い」という意味合いではなく、精強さを表すものでもあった。

しかし、頼長は鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の家を破壊するなどしたため、孤立していく。久寿2(1155)年7月、近衛天皇が崩御すると、頼長に追い打ちをかける出来事が起こる。頼長が近衛天皇を呪詛していたという風聞が流れたのだ。これにより、頼長は失脚する。

そして翌年(1156年)、鳥羽法皇が崩御した。崩御後、法皇と対立していた崇徳上皇が頼長と協力して、挙兵しようとしているとの噂が立った。禁中の警護は固められ、物々しい雰囲気となる。

■本当にクーデターを考えていたのか?

それにしても、崇徳上皇と頼長が同心して、武力で皇位を奪おうとするとの情報は本当だったのであろうか。鳥羽法皇が崩御する直前、崇徳上皇は見舞いに駆けつけているし、崇徳が頼れる武力も微弱なものであり、クーデターなど彼らは考えていなかったとの説が有力だ。

「崇徳上皇側を追い詰めたい」との思いを秘めた、後白河天皇を擁立する信西(藤原通憲)が仕組んだ罠とも考えられている。信西の妻は、後白河天皇の乳母を務めていた。この時代、乳母と乳母に養育された子との結び付きには強固なものがあった。

源頼朝の乳母の1人に比企尼(ひきのあま)がいるが、比企尼は頼朝が伊豆国に配流されてからも、長年にわたり、頼朝に仕送りを続けるなど支援し続けた。頼朝も尼の支援に深く感謝し、平家に対し挙兵してからは、比企一族を重用している。

そのような乳母と乳母によって育てられた子との関係を考えれば、信西らが後白河天皇を支援・擁立したのも当然と言えば当然のように感じる。

とはいえ、信西は後白河天皇のことを「暗君」「愚昧」(九条兼実の日記『玉葉』寿永3年3月16日)と非難したと伝えられており、どこまで信頼関係があったかは若干疑問ではある。ちなみに、信西は後白河の長所として、一度聞いたことは長年忘れないこと、一度決めたことは周りが何と言おうとやり遂げることを挙げたという。

さて、藤原頼長らが荘園から軍兵を集めているとのうわさがあるとして、これを禁じる旨が後白河天皇から出された。そして、源義朝(源頼朝の父)の兵が頼長の邸を接収するなど、頼長はいよいよ追い詰められていく。挙兵へと追い込まれていったのである。

7月10日、崇徳上皇は白河北殿で軍兵を招集、そこには頼長の姿も見えた。ほかには、源為義(義朝の父)、為朝(為義の子、義朝の弟)など源氏の武士、平忠正(清盛の叔父)とその子・長盛ら平家の武士が参集してきた。その勢力は弱小であった。

一方、平清盛は、後白河天皇方につくことになる。清盛の親族に藤原忠通に仕える者がいたこともそれに関係したかもしれないし、清盛とて武将である。どちらが勝つか負けるかを見抜く目は持っていたろう。清盛の継母・池禅尼でさえ「崇徳上皇方は負けます。兄・清盛につき従いなさい」(『愚管抄』)と息子の平頼盛に諭しているほどなのだから。

後白河天皇がいる高松殿には、清盛や源義朝、源頼政などの武将が馳せ参じる。雲霞の如き軍勢であったという。

軍勢を整理すると、以下のとおりだ。

上皇方 天皇方
天皇家 崇徳上皇(兄) 後白河天皇(弟)
藤原氏 藤原頼長(弟) 藤原忠通(兄)
平氏 平忠正(叔父) 平清盛(おい)
源氏 源為義(父)
為朝(弟)
源義朝(兄)

■清盛と義朝が奇襲攻撃

保元の乱の火ぶたが切って落とされようとしていた。清盛と義朝が作戦を立案することとなったが、義朝は夜襲を進言、これが聞き入れられる。清盛は300騎、義朝は200騎余りの軍勢で、白河殿を襲撃するのであった。

7月11日未明、戦闘が始まる。強弓で有名な源為朝が獅子奮迅の働きをみせたため、攻め手は苦戦することもあったが、源頼政ら援軍の到着と、放火によって、崇徳上皇方は総崩れとなった。崇徳上皇は仁和寺に逃れたところを保護され、7月23日には讃岐国に配流となる。頼長は、首に矢が刺さり重傷を負いつつ、奈良に逃亡、ついに絶命した。

崇徳上皇側はなぜ戦に敗れてしまったのか。1つには、後白河天皇方が、京都にいる有力武者(平清盛や源義朝ら)だけでなく、検非違使や諸国司にも動員をかけ、鳥羽法皇の崩御前から警戒体制を敷いていたことも大きいだろう。一方、崇徳上皇方は、自分や摂関家に仕えていた武士ばかりを動員しており、兵力の面からも最初から劣勢であった。

保元の乱の戦後処理は、峻烈であった。崇徳方についた平忠正は清盛により斬首される。源為義とその子らは、義朝により斬られるのだ。これは、薬子の変(810年)以来、絶えていた死刑の復活と言われている。死刑は長く「私刑」(私的制裁)で行われてきたが、保元の乱により、公的な形で死刑が蘇ったというのである(ただし、薬子の変による藤原仲成の処罰も私刑とする見解もある)。

乱の戦功によって、清盛は播磨守に任じられた。一方、義朝は左馬頭に任命され、昇殿を許される。保元の乱での後白河天皇方の勝利は、信西のさらなる台頭を許すことになった。信西は清盛を厚遇し、平氏が勢力を拡大。それに不満を持つ源義朝と清盛が対立し、「平治の乱」の火種となるのである。

濱田 浩一郎:歴史学者、作家、評論家

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

ミッション中・・・

10秒滞在

記事を最後まで読む

ミッション中・・・

10秒滞在

記事を最後まで読む

10秒滞在

記事を最後まで読む

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください