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圧倒的不利を逆転「平清盛」武才がわかる驚きの策 平氏が栄華を極める契機「平治の乱」の顛末

東洋経済オンライン / 2022年1月23日 19時0分

平清盛はどのようにのし上がっていったのでしょうか(写真:k_river/PIXTA)

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やフジテレビ系列のアニメ『平家物語』の放送が始まり、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。公家社会だった平安時代末期、源氏や平氏といった武士がどのようにのし上がっていったのか。そのきっかけとなったのが「保元の乱」「平治の乱」です。

前回は武士が実権を握る原点となった保元の乱について解説しましたが、今回は平氏が栄華を極める基礎になった平治の乱の詳細について、歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

前回:平清盛を隆盛に導いた「壮絶な身内ケンカ」の中身

■「保元の乱」のその後

平安時代末の内乱である保元の乱(1156年)以降、「武者の世となった」と言われる。ところが、古典『平家物語』には保元の乱に関する記述が少なく、これから述べる平治の乱(1159年)についても、さらりとしか触れていない。

「平治元(1159)年12月、藤原信頼が謀反を起こしたときも、平清盛は、官軍として賊軍を鎮定した。『功績は1つだけではない。恩賞は、厚くなされるべきだ』ということで、翌年には、清盛は正三位に叙せられ、続いて、参議、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言と出世の階段を昇る。ついには、大臣の位に至り、左大臣・右大臣を経ずに、内大臣から太政大臣・従一位に進むことになった」(『平家物語』を著者が現代語訳)

しかし、清盛が保元の乱だけでなく、平治の乱においてまたしても「勝ち組」に与したことは、清盛そして平家隆盛の大いなる契機になった。

保元の乱後の国政を主導したのは、後白河天皇(保元3[1158]年に上皇)を擁立した信西であった。

信西は、藤原南家の学者の一族に生を受けた。俗名は藤原通憲といったが、早くに出家し、法名である信西を名乗る。信西は元来、優秀であったことと、妻の朝子が後白河天皇の乳母だったこともあり、出家はしても、後白河を支え、政界で頭角を表していく。

保元の乱後、信西は荘園整理令の発布や記録所(荘園整理の目的で設置)の設置、皇居の再建など矢継ぎ早に政策を推進していく。改革実現のため、信西は自らの子どもたちを要職に起用する。長男の俊憲は検非違使、蔵人に、次男の貞憲も蔵人となる。後白河上皇の乳母・紀伊二位との間に儲けていた成範、脩範も国司となったり、近衛府の役人になったりした。

力を持った信西のよきパートナーとなったのが、平清盛であった。清盛の娘は、信西の息子・成範と結ばれている。

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