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関ヶ原迫る中「家康が1カ月も江戸滞在」深まる謎 家康の狙いは何か?気になる毛利輝元の動向

東洋経済オンライン / 2023年11月11日 11時40分

江戸城富士見櫓(写真: kazukiatuko / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康が関ヶ原の戦い前に1カ月も江戸にいた背景を解説する。

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慶長5年(1600)7月17日、石田三成中心とする反家康勢力は、「内府違いの条々」という弾劾文を発し、家康に宣戦布告した。

【写真】家康は毛利輝元の動向を心配していた。写真は輝元が城主を務めた広島城。

この不穏な状況に、家康は対応を迫られる。同年7月25日、下野国小山で諸将と評定を行った徳川家康。会津の上杉景勝討伐は延期され、上洛することが決断される。翌日には早くも、福島正則や池田輝政が小山を発ち、西上の途についている。

1カ月家康は何をしていたのか

家康は、8月4日に小山を発ち、5日に江戸城に入った。江戸城に入った家康は、しばらく休息をしてすぐに上洛するのかと思いきや、なんと9月1日まで動かなかった。

約1カ月間の江戸滞在。場合によっては、大坂方に余裕を与え、家康に不利となる可能性もあるのに、なぜ家康は1カ月も江戸にいたのか? 家康は何をしていたのか?

江戸帰還以前から家康は、諸大名と書状のやり取りをしているが、江戸滞在中もそれを繰り返している。

8月4日には、池田輝政、九鬼守隆、細川忠興、加藤嘉明らに書状を送り、先陣として井伊直政を派遣することや、自身(家康)の出馬以前は直政の指示に従ってほしいということを伝えている。

5日には、福島正則に宛てて「池田輝政、藤堂高虎、井伊直政を出陣させたので、談合してほしい」と書状を出している。

そうした中、家康が心配していたのが、毛利輝元の動向であった。中国地方を支配し、百万石を超える所領を持つ輝元が家康方につかないとなると、やっかいだからだ。

輝元は7月17日に「内府違いの条々」(家康弾劾文)が三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)によって発せられると、すぐに広島を発ち、大坂城に入城(7月19日)している。

輝元の養子・秀元は、7月17日には、大坂城西の丸を軍勢をもって占拠していた。これは輝元を迎えるための準備と思われる。時代劇などにおいては、毛利輝元はしぶしぶ西軍の総大将になって、石田三成らに祭り上げられたように描かれることもあるが、実際の行動を見ていると、そうではないことが明らかとなる。

まず「内府違いの条々」が発せられてから大坂入城までの輝元の素早い動き。これは、輝元が「反家康」の石田三成派と連絡を取り合い、いざというときのために備えていたことを示している。

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